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2011年4月11日 (月)

中庸(ちゅうよう)がいいんだ

  
   
中庸とは、「中程、かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること、普通、ちょうどいい」 という意味があります。

私は英語でいうニュートラルという言葉が好きです。

心が片寄ることなく、良いこととか悪いこととかを決めつけずに自由な気持ち自然体でいること

それが人生(おおげさかな?)をゆったりとおおらかに生きていくコツだと思うのです。

この間読んだ岡田斗司夫さんの「スマートノート」に今の学生(岡田さんは大阪芸術大学の教授)は中がない、どちらかハッキリしていると書いてありました。

あるアニメの作品のことを学生に聞くと

「あれはクソです」というふうに0ゼロで表現するか、「あれは神です」といった両極端でしか語れない人が多いのだそうです。

ある時期から私たちはハッキリと自分の意見を言うように植え付けられて来たように思います。

「日本人の悪いところはイエス、ノーをハッキリ言わないところだ!」

「自分の意見を言わないから何を考えているのかわからない」

外国人(日本以外の)のように白黒ハッキリさせることがさも素晴らしいことのように教えられて来た。

私も息子と話しているときに彼に何か感想を求めると

「普通」という答ばかりが返って来た時期がありました。

何を聞いても

「普通」 「普通」 「普通」 

今の若者の特徴なのか?

反抗期なのか?

これでは会話にならない

頭に来て ちっ(怒った顔)

「普通ってことはないだろう」

って怒ったけど

よくよく考えてみると、どちらでもないってことがほとんどですよね。

自分でもわからないのにどちらかを決めなくてはいけない

ハッキリしないヤツと思われる

優柔不断なヤツだと思われてしまう


だからわかんなくても


クソなのか神なのかを決めつけなければならない・・・・・。



ひょっとしたらイジメも決めつけなければならないと思ってしまっているところから発生しているのではないでしょうか?

「あいつはいい奴だ」か

「あんな奴は嫌いだ」

の選択肢しかないとしたら

自分にとって都合の悪いことがあると、気に入らないことがあると

憎さ百倍になってしまう

いい奴が悪い奴に一瞬で変ってしまう

ほんの少しの失言も赦さない

「親友だと思っていたのにあいつはそうではなかった」

「もう親友でもなければ友達でもない、絶交だ!」

こんなことが同窓会のことをしているとあるのです。


学生時代の以前にあったその頃の考え方、思考の違い、感情のもつれから

「顔も見たくない」

「あいつが来るのなら行かない(同窓会に)」


一人の人にこだわりがあるために行動が起こせない


あいつが来るかも知れないから行けない

行きたくても行けない

そしてあいつのせいで自分はこんなにもイヤな想いをしている

「あいつが悪いんだ」

と益々憎悪が増幅していく・・・・・。

友達関係だけでなくても人間関係でよくありますよね。げっそり

家庭のことでも会社のことでも悩みのほとんどは人間関係だと思うのです。


家庭が円満であれば学校や会社での人付き合いが上手く行っていればそれが潤滑油になって家計も経営もうまくやっていける。


コミュニケーションがとれるからです。


今、日本人は諸外国から絶賛されています。

人格、品格、人間性、確かに素晴らしいと思います。


しかしあえていうのであれば日本人には

「島国根性!」 があるのです。


よそ者を受け入れない

違ったもの(個性)を受け付けない

自分の身内には優しくするが他人には冷たい

外国人の人に対しての美談もたくさんあるけど

差別もありました(あります)

随分辛い目に遭った人もたくさんいます。


これはしかたがないことだと思うのです。

他の国の人と比べても少ないかもしれません。

しかし例えば車の事故があってその中で死者が出た。

自分の子どもがその中に入っているかもしれない

「うちの子は助かってほしい」

「他の人(死者は)であってほしい」

それは人情なのです。

いくら綺麗ごとを言っても

「よその子が助かってよかった、うちの子はしかたがない」

にはならないのです。

人はこんなとき自分の心の中に悪魔が潜んでいると思って悩みます。

いい人はこういうことで結構自分を責めたりするのです。


そしてこんなことでも悩むのです。


「自分って果して善い人なんだろうか?」


って (笑)


日常生活を送っているとどうしても片寄ってきます。

善いことなのか悪いことなのかをハッキリさせたくなることがあります。

決め付けないと前に進めないような気にもなってきます。


でも決め付けられること、ハッキリしていることなんて

なにもないと思うのです。

それは自分の感覚(感情)でしかないからです。

あやふやな漠然としたものだからです。

神様は物事をすべて 中庸(ちゅうよう)に創られた

いい加減、いやよい加減に創られた


そう思えば神様がそう創られたのに

人間がハッキリさせることなんてなん~にもないですよね。


何かハッキリしない文章を書き綴ってしまいました。(笑)
 

「ああそうか!」

と一瞬(インスピレーション)でわかることも嬉しいし楽しいです。

でもなんとなくわかるっていうのも

私は結構、好きなのです。


「中庸(ちゅうよう)に生きる 」


これから実践して行きたいと思っています。 わーい(嬉しい顔)指でOK





世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)




  


  

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