« 想いって何だろう? | トップページ | 日々の指針 »

2010年10月27日 (水)

一所懸命と頑張るは違う

  

   
一所懸命と頑張るって同じような言葉のような気がします。

でも頑張るとは我を張ること、つまり自分を出そうとすること、一方一所懸命とは自分を無くして、そこに生命を懸けて打ち込むことをいうのです。

だから全然違うのです。

ただ、一所懸命のつもりを言葉で“頑張る”と言ったのならなんの問題もないのですが

頑張るとは、どうしても 力む というリラックスしていない光景が浮かぶのです。

人間というのは、力んでいるときは本当の力は出ないのです。

力を抜いてリラックスしたときに本当の力が湧いて来る。

だけど、日本語には、リラックスして、我を無くして、一所懸命にやろうという言葉がないんですね。

また、本当の力の出し方(方法)がわかっていないこともあると思うのです。

最近、何事においても一所懸命にすることって大切だなぁと思うことがあるのですが、3次元でも4次元、多次元でも一所懸命に努力することが一番尊いのです。

それをみて、神さまが力を与えてくださる。

ぎりぎりの所で、瀬戸際で、崖っぷちで (笑)

だからどっちにしても一所懸命に努力するしかないんですね。


前置きが長くなりましたが、五井先生の質問コーナーに移ります。わーい(嬉しい顔)

よかったらお付き合いください。




 
問 17


私は二度大学受験に失敗し、三度目に目的の大学に入りました。大学で勉強してゆくうちに、人間の生きる目的がなんであるかということがわからなくなってしまったんです。

それで結局、無我の境地になることが目的だ、ということがわかって来たんですが、そうなると、こんどは、自分が学校で勉強していることが何の為にしているのか、わからなくなって来たんです。どうしたらよろしいでしょうか?




 



それ無我でもなんでもないんだね。 無我であるならば、自分の環境が学校に入って学問をする環境にあれば、そのままそれを生かして学問してゆくものです。

無我というのは、自分の我が無くなることなんだから、これがどうだ、ああだって考えてるうちは無我でもなんでもないわけなのね。

人間の目的は何かというと、置かれた環境は神さまが置いて下さったんだと信じて、その場で一所懸命いのちを生かしてやること、これより他にないですね。

なんでも一所懸命やるということが人間の目的です。


それをもっと詳しくいえば、神さまのみ心をお互い二十何億(その当時は)に分れて、この地上界に花咲かせる、神さまのみ心を現わすために、自分は生れてきているんです。

神さまのみ心を現わすためには、その場に置かれたら一所懸命、真剣にやらなければだめなのです。

便所掃除の役に当ったとする。

こんなつまらないことっていうけれども、やる事柄がつまってもつまらなくてもいいんです。

生命を一所懸命に生かす、一所懸命働くというのが、神さまの目的を達成する第一段階なんですね。

それがわからないと、どんな理屈をいってもだめです。

学問の殿堂、大学に入ったら、学校の勉強を一所懸命やる。商売をしているんなら商売を一所懸命やる。家庭の主婦なら主婦の仕事を一所懸命やる。

そうすることが神さまのみ心なんです。

神さまのみ心というのは、観念の意味で頭でもって、あっちこっちと兎や角するんでなくて、頭も体も一緒です。

一緒に一つのことにぶつかってゆくわけですよ。

ぶつかってゆくのに手の届かないところにぶつかってゆくのではなくて、自分の置かれた環境をそのまま一所懸命やる。

それ以外にないですね。

そうすると、知らない間に、たとえば誰かに会って “君そんなことをしているのか。こっちへいらっしゃい” って引っ張られたり、或いは誰かから “それは駄目だから、こっちにしろ” っていわれ心が動いて、そちらへ行ったり、その場その場で自然に心が動いてゆく。

それでやってゆくわけですね。

置かれた環境がどんなに悪かろうと、又心が動いて行ったところが悪かろうと、そこで一所懸命やるんです。

一所懸命さえやっていれば、必ずその環境を突破して、目的にだんだん近づいてゆくんです。

一所懸命やらないで理屈ばっかりいっている人が、一番愚かですね。

理屈ばかり頭でこねまわしていて、ちっともその与えられた環境で一所懸命にならない人、そんな人ほど愚かなものはない。

神さまはそれを一番嫌います。

神さまが一番好いている人は、どんな環境でも一所懸命やる人ですよ。

一所懸命やるということは、求めていることなんです。

商売が嫌いだとしても、商売の環境に置かれたら、商売を一所懸命やる。

それがどうしてもその人に適さなければ、また違うところに行くようになります。

私なんか自分がいい体験をしています。

私は終戦後に何をやったかというと、音楽の勉強をしたから、音楽をまずやった。

しかしジャズバンドみたいのでなければ食べてゆけなくなってきた。

そんなものいやだから、パッと捨てちゃった。

どうにも嫌だから止めた。

それで失業しながら病人のお浄めなどをしてみんなを救って歩いてましたね。その場合には一銭も金なんか貰いやしなかった。

ところが知らない間にポケットにお金を入れておいてくれたりしたので、まあ食べられていった。

そのうちに中央労働学園に勤務するようになった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)労資協調の斡旋をしていたんです。社会主義と共産主義の真只中で、私は神さま主義でしょう。私は文句も何にもいわなかったんです。

与えられた環境は神さまから与えられたんだと思って、一所懸命やっていました。

つまらない労働争議の統計を書いたり、労資の協調のことを書いたりしてたんですよ。

唯物論の真只中に唯物論の最も唯神論者がいたんです。

そこで唯物弁証法など唯物のこともよくわかった。

そういうものですよ。

自分の一番嫌な、反対のところへ行っても、そこでもやっていた。

けれどジャズバンドなんか嫌だったから、死ぬ想いで出ちゃったですね。

神さまは置いておかないですよ。放り出しますよ。

そういうふうに飛び出した。

だから嫌な時には、パッと飛び出すことも神さまがやるんだ。やっぱりジーッと忍ぶだけ忍んでなきゃだめですね。

いやな環境でも一所懸命やってると、神さまは必要なきゃパァーンと出さしちゃうですよ。


何かの方法でね。そういうもんなんですよ。


人間の目的を達成するためには、置かれた環境で一所懸命、生命を生かしてやってゆくこと。

そうすると、知らない間に目的を達成する、神さまの使命、天命をまっとうする道に知らないうちに入ってゆくんです。


それ以外神さまの道に入る方法はありません。







      「質問ありませんか?」 五井昌久 白光出版





  

  

« 想いって何だろう? | トップページ | 日々の指針 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/160971/37414119

この記事へのトラックバック一覧です: 一所懸命と頑張るは違う:

« 想いって何だろう? | トップページ | 日々の指針 »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ