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2010年9月23日 (木)

五井先生の講話(昭和47年12月)

  

    

神様から生命を頂き直す




人のため、神様のためと言うけれど・・・・


 
人間というものは、こういう場合にはどうしたらいいだろう、またこういう場合にはこうしたらいいだろうと、初めから答を作っておいても、その通りにはいきません。

どんな立場で、どんな問題が出ても、スパッと答えられ、スパッと躊躇なく行ないが出来るような、そういう心を作っておくことが、一番大事なんですね。

それにはどうしたらいいかというと、常に自分の想いを、祈り心で神様におまかせしておく ━ 生命は神様から頂いているんだから、それを常に神様にお預けしておいて、毎日瞬々刻々、神様から頂き直して、日々の行ないとする、そういう心に徹しないとダメなんですね。

想いを常に神様の中に入れておいて、一瞬一瞬の行ないが、神様から頂いた生命の行ないである、そういうふうに徹していかないと、いろんな問題の答が出て来ないんですよ。

世の中には枝葉の応用問題が多いですから、あらゆる答があるわけです。

どんな場合でも、優等生の答が出来るのは、常に神様と一緒にいるということ。

自分の想いが神様の中に入っていて、自分の体というものは、いつも神様の生命が使っていてくださる、そういうかたちでなければダメなんですよね。

自分の我というものがあってね、自分でこれは損だから、得だからと思う。

しかし言葉だけで、これは人のためにやっているんだ、とごまかす。

それは実は自分の欲望とか執着とかいうものなんだけれども、これは神様のためにやっているんだとか、これは人のためにやっているんだとかいうふうに、自分や人をごまかすわけね。

ごまかして、それで自分の執着を続けてゆく、というような場合もあるわけですよ。

そうすると、神様のほうではちゃんと判っていますから、それなりの因果応報で、なんか答が返ってくるわけです。

 


 

現象的なことが問題ではありません



ですから、現われてきたことが問題じゃなくて、現われる以前の人間の心というものが一番大事なんですよね。

それを常に、神様の生命の中に、神様のみ心の中に入れておいて、いつでもパッと答が出てくる、自分の行ないが自然に正しいほうにゆく、というような人間にならないと、肉体がなくなって霊界やなんかに行く場合に、いい所へ行けないわけです。


現象的なことは問題じゃなくて、そこでいかに自分の心が素直に神のみ心通りに行なえたか、ということが問題になるわけですね。


現象的なことで言えば、イエスさんなんかは一番損ですよね。


肉体は十字架に磔(はりつけ)になっちゃって死ぬんでしょ。


人のために一生懸命、神様のみ心を説いて磔になる。


これほど損なことはないけれども、そのイエスの行ないによってキリスト教が広まり、少なくとも人類の進化のためには大いに役立っているわけです。

 私なんかもそうですよね。さあ、困った人はみんないらっしゃい、悪いものはみんな私が引き受けます。


どうか人類の業が私に降りかかって、自分が身代りになりますように、ということを思っています。


だから、業が一杯やってきます。


はたから見ればバカなことですよね。だけど、そうしないではいられない、神様のみ心をこの世に行じて、みんなのために尽さなきゃいられないという、どうか人類のために自分の体をお使いください、と思わないといられないという、そういう生き方もあるわけですよね。

それを菩薩心と言うんです。

そういうように、いろんな生き方があるけれども、我々の生き方は、あくまでも神様に想いを全部お預けして、日々瞬々刻々、神様から生命を頂き直して、生活を頂き直して生きてゆく、そういう生き方なんですね。

どうぞ、そのことを覚えておいてください。

そういうことが判っていますと、いざという時に、すぐに祈りに入れます。

いざという時に、すぐに行動に移せます。

例えば、強盗にピストルを突きつけられたとする。

初めはドキッとしますよね。

ドキッとするけれども、その次の瞬間には、五井先生なら五井先生、神様なら神様と思って、スーッと心が平安になります。



                  つづく



 


感想
 

なにか 「感想なんていらないよな」 というくらい素晴らしい文章だと思うのです。

私が何かを書くとせっかくの五井先生の波動が違うものになってしまう。

だから特に書きたいと思うとき以外は、感想はやめてそのまま書き写そうと思いました。

でも少しだけ感想を書きます。(笑)

私たちは、現われてくる現象を観て判断をします。

自分も他人も・・・・・。

結果が良ければ喜び、それでいいのだと思い。

結果が悪ければがっかりして、それを直そうとする。

でも現われてきた結果がよいものであり続けるのか?

また、悪いものが本当に悪いものなのか?

自分ではなーんにも、わかっていないのです。

根拠がない、確信がない。

そんなアバウトな生き方で

堂々と胸を張って安心して生きてはいけないのです。

結果がどうであろうと他人がどう言おうと


結果が出る前に自分の心が本心と同じならば

神様のみ心通りならば

スキーッと澄み通っているならば ぴかぴか(新しい)

信念を持って、自信を持って生きていけるのです。


だからますます

祈りを深めて行こうと

自分に言い聞かせたのでした。








世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊さまありがとうございます

守護神さまありがとうございます


 
     

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