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2010年8月 5日 (木)

神のみ心の中に入る 3

  

言葉でする心の交流


これはとても大事なことなのです。それで私の日常生活はどうかというと、私は何も思っていないのです。

毎日、何も思ってないのです。朝来ると「お早うございます」とやっています。

お昼になれば 「やあこんにちわ」 とジィーと顔を見ています。

私が顔を見ているから、向うじゃ

「何、先生見ているんだ、私のどこかに何かついているかしら」なんて思っているかもしれない。

何にも見ちゃいないんです。

何も見ていないで、何をしているかというと、黙って浄めているんです。

私が顔を見ているから「私、きょう顔がきれいだから、先生見とれてるわ」 なんて(笑)そうじゃない。

顔を見て見とれているわけじゃない。

「きれいだね」 なんて誰かにいうけれども、ごめんなさい。

しかしきれいとか、きたないとか、あまり問題になっていない。

何を見ているか、この目で見ているわけじゃなくて、奥の目で、ジーッと向こうを浄めているだけです。

ただ黙って見てたんじゃ向うが煙たかろう、と思って、冗談をいったり話をしたりする。

この声の言葉で冗談をいったりなんかしていますが、それはそれでいいのですよ。

ただおとりなのです。

ハッキリいうとね。「先生あんなことをいって、じゃもう先生と話すのよそう。つまんないわ、先生本気じゃない」

ところが大体、人間なんていうのは、本気で話していないんですよ。

どうでもこうでもいいことなのですよ、「雨ですわね」見りゃわかる。

「風が吹いていますね」 さわりゃわかる。

だけどもさ、そういわなければ、なんだか変でしょう。

わかりきっているのですよ。

そこが肉体生活、なかなか面白いところですね。

落語にもありますね、「いいお天気ですね」 「見りゃわかるじゃないか」 「雨ですね」 「いわなくたって降っているのはわかるじゃないか」

これでは喧嘩になるでしょう。だから「いいお天気ですね、雨ですね」というのに本気でいっちゃいないんだ皆は。

ただ言葉として何気なくいうんです。

その何気なくいうところに、言葉ではなくて、奥のものが、お互いになごもうとする。調和しようとする、お互いが調和してくるんです。

「いい天気ですね」 「そうですね」 といった時に、言葉が楽しいんじゃない。

「雨ですね」「いやな雨ですね」なまじっか宗教をやった人は、雨も尊いんだ、なんていっちゃってね。

「そうですね」といえばいいものを、なんか偉ぶっちゃって「雨もありがたいんじゃ」これじゃ喧嘩になっちゃうでしょう。

言葉はいかにも悟ったような言葉だけれども、それは言葉だけであって、本当の人間の心の交流ということを知らないのですよ。

「いやな雨ですね」といわれたら 「そうですね」といったらいいじゃないか。

そういえば、相手と同化するんで、心が結ばれるでしょう。

その人は自分の心が通じたわけだ。

「いやな雨です」といって、雨のことを気にしているわけじゃなんだ実は。

「いいお天気ですね」 といったって、別にいいお天気にこだわっているわけじゃないんです。

ただ人間の心を交流させる一つの手段として、いうんですね。

みんなそうなのですよ。

そうして心が結ばれてゆくんです。

この世の中で、必要な言葉だけを選んでやってごらんなさい。

一日、口をきくことがいくらもないから、「めしだ」といわなくたって、めしは出てくるでしょう。

「ただいま」といわなくたって帰ってくるでしょう。

いうことありゃしないですよ。

サイレントになっちゃうよ。

しゃれたことをいってみたり、冗談をいってみたり、なんとなく言葉をいうことによって、それで和むでしょう。

それと同じなのです。

私も、きれいになったとか、背がのびたとか、髪の形がいいとか、爪がのびているとか、いろんなことをいうけれども、本当のところ、そんなことはどうでもいいんだけれども、いうことによって、その言葉をあやにして、言葉を縁にして、心がスーッとつながってゆくんですね。

顔を見なくたっていいんですよ。

「こんにちわ」 といって来たら、ジーッとしていればいいようなものだけれども、それでは向うが変になるでしょう。

だから顔を、いかにも親しそうに見て、それで 「きれいになったね、今日は特にきれいだね」 なんていうんですよ。

すると途端にいい気持ちになります。

そうすると先生が好きになりますね。

好きになれば、心が交流してくるでしょう。

光の波が余計入ってくるんですよ。

いわないほうがいいかというと、いったほうがいいのです。

お世辞じゃないかもしれない、本当の時もあるんだからね。

いわれたほうが気持ちがいいでしょう。

只いい方をうまくいうんですよ。


   

               つづく



       
          
「不動の心」 五井昌久 白光出版




 



感想


「言葉ってそういう意味で使うのかぁ」

と初めて、知ってわかったような気がします。


その言葉の内容がどうだということではなくて

言葉以前の調和しようとする、仲良くしようとする、わかり合おうとする気持ちが大切なのですね。

その気持ちが言葉になって出てくる

わたしたちはどうしてもその言葉の意味を考えてしまいます。

表面的な上っ面の言葉の枝葉の部分をとらえて

「あんなことを言われた」

「その言葉はどういう意味なんだ」

とこだわります。

そして誤解を生むことがある。

政治家の人でも言葉を間違えてとんでもない事態になったりします。

言葉はもの凄いエネルギーをもっている。

そして心の内に溜まったものが外に出て来ます。

だから心の中をいつもスッキリ爽やかにきれいにしていないと、中のものがそのまま出て来てしまうのです。

心の中を整えていれば声に出てくる言葉はどんな内容(お天気の話題でも)の言葉であったとしてもそれは相手と円満に交流する、調和する、同化する、潤滑油となるんですね。


これからは心の中を整えて(波動調整をして)

いい方をうまく工夫して(笑)

相手の人の心と交流するために言葉を使っていこうと思います。






世界人類が平和でありますように


無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和


  


 

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