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2010年8月30日 (月)

把われ(想い)を放つ

  
  
間とは光の波動体である、とこれまでに書いてきましたが、どういうことかというと肉体という物質を分解していくと細胞、分子、原子、電子、素粒子など目に見えないエネルギーの集まりだということがわかっているのです。

そのエネルギーがある意志を持って、何か(サムシング・グレート、大自然、神)が働きかけて波動体となって存在しているのです。


そして私たちは肉体の死とは、肉体という物質と同時にすべてが消滅してしまうと思っています、心とは肉体に付随しているのだと思っています。

肉体が主で心が従

そんなバカなことはありませんよね。

人間とは、心という光の波動体があってそれに肉体という物質波動が乗っかっているのです。

その心はどこにあるかというと神界にあります。(神界と宇宙はつながっています)



 
神界(完成された世界、天国、本心のあるところ)

霊界

幽界

肉体界



 
つまり私たちの原点とは神界の心なのです。(神のみ心)

まず神界が先(元)にあってそこから霊界、幽界、肉体界が出来てきた。

だから肉体がなくなっても幽界(幽体)、霊界(霊体)、神界(神体)は存在しているのです。

そして、アセンションとは、天国が地球上に顕われるということなのだから、霊界、幽界は消えてしまうのです。

つまり本当にあるのは神界(宇宙)だけなのです。(空即是色)

そこに本心があるのだから心、魂は未来永劫に生きつづけるということです。(宇宙は永遠)

でも私たち人間のほとんどは、神界も霊界も幽界もないと思っている。

肉体界しかないと思っているから、肉体の死とは同時に魂の死と思ってしまっているのです。


目にみえないものは信じない

でも、空気もみえないし、心もみえないけど

ありますよね。

神さまもみえないけど、私たち人間や、万物を創った何か?はあるわけです。

  
話を元にもどして、人間とは光の波動体だと書きました。

それは宇宙からの光の一筋が私たち人間(個人)だということです。

太陽は一つですが、そこから無限の光(波動)を放っています。

なぜ光っているかというとエネルギーが流れつづけているからです。

私たちの生活の中でも電灯などの光は電気というエネルギーが流れつづけているから光続けています。

エネルギーが流れなくなったら光らなくなってしまいます。

だから輝きつづけるには、流れつづけない(流しつづけない)と輝けないわけです。

私たちも太陽や電灯と同じ光の波動体なのです。ぴかぴか(新しい)

光続けるには、エネルギーを流しつづけないと光らないのです。

人間にとってのエネルギーとは心のことです。(心が主だから)


エネルギーを流すには、どうすればいいかというと


考え過ぎない(マイナスをつかんでしまうから)

起ったことはクヨクヨ考えずに流してしまう(忘れる)

善いことにも悪いことにも把われない、つかまない。(善い事でもつかんでしまうとエネルギーが滞ってくるのです)


常に前を向いて、後ろ(過去、過去世)を振り返らないということです。

それが

把われ(想い)を放つ!!

ということです。


放たないとどうなるか?

それは川の流れに大きな石(意思、想い)を置いてしまうのと同じなのです。

電線に障害物を置いてしまうのでスムーズに電流が流れない


だから光らない、輝かない。

真理とは実にシンプルなのです。電球

自分が生き生きしたいと思ったなら

物事をスムーズに行かそうとしたら

宇宙の法則に乗ろうとするのだったら

病気という気(エネルギー)の病を治したかったら


心という光のエネルギーを流しつづけていけばいいのです。わーい(嬉しい顔)手(チョキ)



でも私たちはすぐにその流れを止めてしまいますよね。げっそり


考え過ぎてはいけないとわかっていても考えてしまう。

一つのことをずっと考え続けてしまう。(把われる)

業想念が、過去世からの潜在意識が次から次へと湧き出てくる。

地球上のマイナス想念エネルギーが襲いかかってくる。

他人の言っていることにひっかかってしまう


それによって

余計に想い(重い)、想念を溜めてしまうのです。

想いは重いのです。げっそり

それによって、エネルギーの流れを滞らせてしまう


だからスッキリしない

気持ちが落ち込む

マイナスのエネルギーの中に入ってしまう


でも、五井先生はそのままでいいから


マイナスの中に入ってしまっていていいから

そこでどうのこうのと思い煩わずに

「そのまま世界平和の祈りの中に入ってしまいなさい」

とおっしゃっています。

それはどういうことかというと

世界平和の祈りは

宇宙の願いごとなので宇宙の無限のプラスのエネルギーと共鳴するのです。

無限の大きな川の流れが、人間の業想念、マイナスのエネルギー、過去世からの業因縁を流して消し去ってくれるのです。


それによって生命が生き生きしてくるのです。

祈りとは生命(いのち)がのりだすという意味です。

生命が生き生きとしてきて光輝いてくるのです。ぴかぴか(新しい)

祈りでしか人間が輝いていくメソッドはないのです。

なぜならば、私たちの本心は神界で祈っているからです。


私たちの原点(故郷)である神界と共鳴しないと私たちは生き生きと生きていけないのです。

人間である以上は、業想念はあるのです。

過去世もあるのです。

潜在意識も汚れています。

マイナスの想念も受けます。

汚れないまま生きて行くことは残念ながら出来ないのです。げっそり



でも肉体人間の自分にはどうしようもない、汚れを消すことはできない。

だから自分でどうにかしようと思わずに

自分から出て来るすべての想念、現れて来る出来事を

宇宙というとてつもなく大きな流れの中に入れてしまえばいいのです。

それが全託です。

でもそれは他力本願でもなんでもないのです。

それは自分は宇宙だからです。

自分が創造主(神)だからです。

結局は、自分で自分を救っているのです。

 


世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



我即神也

人類即神也




  

日々の指針

  
  
  
.固定観念は、自らの一生を閉じ込めてしまっている鳥カゴのようなもの。


1.自らに誇りと品格を持て。
 

1.自らの言動行為に責任を持て、責任の持てぬことはすべて慎め。


1.憎まれるよりも憎むほうが、恨まれるよりも恨むほうが、嫉妬されるよりも嫉妬するほうが、もっと深い傷を自らに負わせる。赦しなさい、すべてを!!


1.道に迷ったら必ず元の場所に帰るように、壁に突き当たったら初心に戻ることだ。

 



          

                 西園寺昌美




   


2010年8月28日 (土)

病気になるには色んな原因がある

  

  
今、五井先生の『空即是色』を読んでいるのですが、そこに真理を知らないと、とんでもないことになる、死んでからも人に迷惑をかけることになることが書かれています。

医学的には証明のしようもない、目にみえない世界のことですが、大事なことだし、ここ(日記)に書いていくことは意味のあることだと思い、抜粋することにしました。

「信じられない!」と受け付けない人も多いとは思うのですが

「なるほど!」 と納得される人も少なからずおられると思うのです。




 

霊障というもの


もう一つの質問 「霊障の病いと長いこといわれてきましたが、どういうものなのでしょうか」という問いに答えましょう。


霊障というのは、迷った想念が肉体にかかり、おぶさっている状態をいうのです。

余計に荷物(迷った人の想い)を背負ったようで、そこだけ重いわけです。

それが頭に来れば頭が変になるでしょう。

肺へ来れば肺病になるでしょう、というようにさわっている。

それが霊障というのです。


どうしてそのようなことがあるかというと、自分の肉体などない、死んだ後の世界などあるものか、無になるのだ、死んだ者に魂などあるものか、思って死にます。

要するに、いかにも仏教を説いているようだけど、そういう人は唯物論者で、実は何も知らない、本当のことは何も知らない人が死にますと、死んだら生命がないと思っているのに、実際に生命があるでしょう。

想いが返ってくるのだから。

そうするとああ俺は死ななかったのかと思うわけです。

じゃ生きかえったのかナと思う。

けれどももう肉体はないわけです。

幽体があるけれど肉体はない。 だから体は肉体感覚とは違うわけです。

なんだかしっかりしないんだナ。そうすると思い出すのはどこかというと、自分が昔住んでいた所とか、親しい人とかを思い出すのです。

それでスーッと親しい人の所へ来るわけです。

自分の妻なり夫なり、子孫なりの所へ来るのです。

そして一緒にくっついてしまうわけです。

くっつかれた人は重くなってしまう。

そういうのが何人もあれば大変です。 重態になるわけです。

私たちがそれを観ますと、ああ誰々がいるな、というので気合いをかけたり、柏手を打ったりして浄めるわけです。

ところが執念深く何十年もついているのは、一遍や二遍ではとれない。

うっかりとると、その人まであの世へ逝ってしまうことになるのです。

だから少しずつ少しずつはなし浄めてゆくのです。

新しくついたものなら、パッと浄まります。

そういうものなんですよ。

 
 


あの世のためにもなる生き方
 



だから私はよくいうのです。この肉体に生きている間は何もしなくてもいいから、あの世へ行ってまで世話かけるのが一番いけないことです。

この世でなんにもしなくていいから、せめてあの世にも生命があるんだナ、死んでも生命があるんだナ、という気持ちをもって、守護霊さん守護神さんにすがっていなさい、というのです。

守護霊さん守護神さんにすがっていれば、何事もしないどころではなくて、すがっていることそのものが、この世に存在する意義があるわけです。

守護霊守護神につながっていうような人は、何かしら人のためにしなければいられないのです。

自然に人に親切にしたり、ニコニコしたり、ああなんて感じのいい人だナって思われて、この世の中に、やわらかい雰囲気、温かい明るい神さまのみ心をふりまいてゆくわけですから、人のため、世のためになっているわけです。

おじいさんおばあさん、あるいは病人で何か事柄としては出来ない人もありましょう。

そういう人たちは、一生懸命守護霊守護神にすがりながら平和の祈りをしていれば、平和の祈りをしていること、守護霊守護神に感謝していることそのままがこの世のためになり、あの世のためになるわけです。

だからそういう生き方をしなさい、と私は説くわけです。




  

      『空即是色』 五井昌久 白光出版






感想


人間の一番の恐怖とは死ぬことに対してですよね げっそり

でも死んだらどうなる?を知らない人が多い

真理(本当のこと)を教えて安心させてくれる人がいない

だから世の中が善くならないのだと思うのです。

教えてくれないからそのままにしているのではなく

自分で真理を探究していくことも大切です。

探求してもそれが正しいか間違っているかを正確に指摘してくれる人がいないのも事実です。

アセンションとは人間が真理に目覚めていくことなのですが

真理を真剣に求めていこうとする人がたくさん現れてくるのだと思うのです。

お釈迦さまやキリスト(真理)はそのことを心から願っているのだと思います。



    
  

2010年8月26日 (木)

空即是色とは?

  
  
人間は本来は神界に住んでいて、同時に霊界、幽界、そして肉体界にも住んでいるのです。

本心は神界にあるので、肉体界で本心と違うことを思ったり行動したりすると神界(本心)から

「違う違うそうじゃない」という波動調整が入るのです。

それはどうしてわかるかというと

なんだか気分がスッキリしなかったり

「これでいいんだろうか?」という悩みになったり

物事がスムーズにいかなかったりすることで知らされます。

本心と肉体が一致していると何も考えなくても

心(本心)の赴くままに自然と動いているだけで

すべてが整ってくるのです。

それは神さまの計画通り、宇宙の法則に乗っているからなのです。

進化した星の宇宙人たちはこの状態になっており

地球人も、アセンションの時にはほとんどの人がこの状態になるのです。

お釈迦様やキリストは、聖者であり、霊覚者であったわけです。

お釈迦様の心境とは、いつも空だった。

空とは、神界と肉体を結ぶ光が真っ直ぐに漏れることなくつながっている状態をいうのです。




神界

霊界

幽界 (過去世、潜在意識、業想念が溜まっている世界)

肉体界




お釈迦様の心の中は空であった、どういうことかというと何も邪魔をするものがないのでお釈迦様の心の中は神界=霊界=幽界=肉体界も同じだったのです。

だから神界の本心をそのまま肉体界に降ろして現わすことが出来た。

しかし、人間は神界(本心)はお釈迦様と同じ世界に住んでいながら、想念が汚れている(特に幽界)ために肉体界には汚れた世界が写ってきているのです。

でも幽界は本当の世界ではなく、人間の想念がつくった間違った世界なのです。

本来なら神界(天国)が肉体界に降りて来なければならないのに、幽界(潜在意識)が写って来ている。

でもそれは嘘の世界なので、消えてゆく世界なのです。

偽物は消えて本ものの世界(神界)が現れて来ようとしているのです。

今私たちの目の前で現れていること、起っていることは実は、過去世(潜在意識)で溜まったものが現れて、そして消えようとしている。

嫌なことも嫌な奴も現れて、消えてゆこうとしているのです。

だからその嫌なこと、嫌な奴をつかんではいけないのです。

なぜなら、消えてゆこうとしているのだから・・・・。

最後の最後に残るのは、神界にいる本心だけなのです。

それ以外のものは全部、泡のように消えてゆく世界なのです。

だから目に見えるもの(色)は本物ではない

色即是空とは

目に見えるものはすべて幻なんだ空なんだ

消えてゆくんだ

実体のないものなんだ

だから空なんだ、空なんだ

無いんだ、無いんだ

と般若心経では徹底していっているのです。


目に見えるもの(色)は空なんだ、消えてゆくんだと言っているのです。

徹底的に自分の心から幻想、幻覚をはぎ取っていくわけなのです。

はぎ取って行った後が

空即是色

つまり本物の色が現れる

その色とは無色なのです。(だから色即是色の色と空即是色の色は全然違うものなのです)

オーラ写真を撮った時

肉体が写らずに白光の光だけが写っている

それが空即是色なのです。

これを言葉で現わすのは難しいのです。

あえてゆうならばピュア(純粋)な心の状態です。

スッキリ爽やか

心のなかには何にも残っていない

神界がそのまま肉体界に降りて来ているのが

神我一体

神さまと肉体人間の自分が一緒になった状態なのです。

だからアセンションとは

人間が

空即是色になった状態をいうのです。

今は色即是空を実行するときなのです。(その後で空即是色になるからです)

だから目の前に起こること(幻覚)を実体のあるものと追いかけてはいけないのです。


本当にあるのは、神さまと一体となった神さまのみ心だけなのです。



   


 
 

 

本体は神界にある

  
  
  
ある日の日々の祈り


  
どのような悪そうに見える人でも、低劣そのもののような人でもその本体は神界にあって、光り輝いているのでありますが、その分霊がこの現象世界の現身(うつしみ)となるまでに、神界の本体の光の道から想念波動がはずれてしまってきて、人間として必要な、各種の要素が不調和になってしまったのです。

その不調和な想念波動が、憎悪とは、闘争とか、妬みとか、恐怖とかいう、この世に不幸をもたらす運命をつくりだしてきたのであります。


この世の人々は、神のみ光そのものである生命を、想念で汚しきってしまっていて、生命本来の働きを邪魔してしまっているのです。


そこで聖賢は、空になれ、といって、肉体頭脳を駆け巡る想念を消滅させようとしているのです。





 
           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版







感想
 

これまでにも何回もこの下の図を書いてきたのですが、神界に本当の自分、つまり本心があるのです。




 神界(本心、本当の自分がいるところ)
 ↓ 
 霊界
 ↓
 幽界(潜在意識、業想念の溜まっている世界)
 ↓
肉体界




神界の波動(光)が真っ直ぐに肉体まで降りて来たらいいのですが、降りてくるまでに汚れて本心から外れてしまっているのです。

そして私たちは考えるときに頭を使いますが、頭とは神界とはつながっておらず、幽界の想念や人の想いを受取りやすいのです。

想うとは、相手の心と書きますが、本心ではないのです。

この想いを自分の本心だと間違えることに不幸が訪れるのです。

お釈迦様、その他の聖賢が言っている空とは

神界から肉体界への道をスッキリさせて(邪魔を入れない)直観のみで生きられるようにする方法なのです。

世界平和の祈りは自然と空になっていく最善の道なのです。




 
世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  


  
 

『空即是色』

  
   
みなさんも、般若心経の中の色即是空、空即是色は知っておられると思います。(あまりにも有名ですよね)

この色即是空、空即是色の意味が完全にわかってしまえば悟ったことになりその人は救われるのです。

アセンションとは、空即是色になったときのことをいうのです。


これから少しずつ、私なりの色即是空、空即是色を書いていこうと思っているのですが五井先生のご著書に「空即是色」があります。


そこから抜粋した文章がありますので、お付き合いください。



 
 
* アセンションとは次元上昇のことであり、巷では2012年に地球は今とまったく違う大人(精神的)の星に進化すると言われている。次元上昇すると人間には死が無くなり、お金(勘定=感情)も無くなり、四季の中の夏と冬が無くなる、つまり気象(気性)が穏やかで安定してくるのです。(地震や天変地変も無くなり、春、秋の季節だけの天国の気候なのです)





 五井先生のことば 



神のみ心のなかに入る祈り



 
悟るためには空にならないといけないけれども、空になることは非常にむずかしい。

また小智才覚でなんにも思わないということもむずかしい。

この現象世界では想いにとらわれてしまいます。

とらわれてはいけないということも、空になるということもなかなかむずかしいことなので、私はどうしたかというと

“消えてゆく姿”を使ったわけです。

この頭のなかで、いいと思うことも、悪いと思うことも、あいつはいやな奴だと思うことも、他からおかされることも、自分から出てゆくことも、すべて真理に反することはみんな消えてゆく姿なのです。

あるものは、神のみ心だけなのです。

嫌なことがあったら、過去世からの業想念が今現われて消えてゆくのだ、消えてゆく姿だ、と神さまのみ心の中へ嫌なことを持ったままで入ってしまいなさいというのです。

神さまのみ心のなかに入るにはどうしたらいいか、そこに祈り心がほしい。

祈り心といってもどういうことかわからない。・・・・・・・・・・・自分と人類は同体で、自分というものは人類の中にあり、人類は自分の現われなのです。

人類が自分でもあるのです。

だからほんとうは自分が人類の中に入りこんでしまわなければいけない。

それにはどうしたらいいか。

人類すべてが平和でありますように、幸福でありますように、本体が現れますように、というので

“世界人類が平和でありますように” という祈り言が出来たのです。


そして“日本が平和でありますように、私たちの天命がまっとうされますように”という祈り言がつづいたわけですが “私たち” というのは自分たち一家だけではないのです。

私たちを含めて無限の数です。

いわゆる世界人類です。ですから、世界人類の天命がまっとうされますように、ということと同じことなのです。

そういう祈り言をすると、つねに自分は人類の幸せを願う心でいっぱいになっているわけです。

一人の人間が三十数億の幸せの中に生きているわけです。

そういう大きな自分になってゆく。


いいかえれば、神のみ心の中にそのまま入っているということです。

“世界人類が平和でありますように”という祈り心で、神さまのみ心の中に入ってしまうわけです。

入る時は、自分の持っている業想念 ━ 誤った想い、把われる想い━もそのまま持って祈るのです。


そうすると、自我欲望にまつわる、いろんな小智、才覚、もろもろの間違った想い、人からおかされる想いというものが、みんな世界平和の祈りで一緒に消えてゆくわけです。


これを何回も何回も繰り返して祈り、だんだん深くなってゆくと、しまいには業想念がスッカリ消えるわけです。

初めは深く入れないかもしれない。

しかしみんな練習ですから、だんだん深く祈りの心のなかに入ってゆくうちに、いつのまにか、自分の幸せだけ願っていたことが、ほんとうに、世界が平和でなければいけないナ、というふうにだんだん心が強まってくる。

そうすると、自分の心がサバサバとしてくるのです。


心が青空のように晴れわたってくる。


こういう境地はやっぱり悟りの境地なのです。


お釈迦さまはそういうように悟ってくるのだ、という一番のもとを説いていうわけです。

それをわれわれが、お釈迦さまの心を了解し、悟って、現代的にはこういうように説きあかそう、といって

“消えてゆく姿で世界平和の祈り” という生き方を発見したわけです。



   
     

         『空即是色』より ━ 五井昌久 白光出版


 





   


  

2010年8月24日 (火)

守護霊守護神に代わってあなたに語る 全27

    
   
私たちは、自分一人(孤独)の力で生きていると思っている人

そして、他人に支えられて生きていると思っている人がいます。

確かにそうなのですが、実はもっと凄い、大きな力によって守られているのです。

それは、守護霊、守護霊様です。

肉体界は幽界(潜在意識)が写ってきているので、幽界(過去世からの想念が溜まったところ)を浄めないかぎりは、どうしようもないのです。

私たち(肉体人間)に幽界を浄めることが出来るか?

出来ないのです。

そこに守護霊守護神様の存在して戴いている意味があるのです。

これまでにも“守護霊守護神に代わってあなたに語る” は掲載してきましたが、最近読んでくださっている方もおられるので又、載せてみます。

みなさんも改めて、読みかえしてみてください。

きっと新たな発見がありますよ。 わーい(嬉しい顔) 手(チョキ)


 


  


1、私は日頃あなたが思っていること、考えていることそのすべてを把握し、そしてその希望をすべて成就させるよう願っている。

決してあなた一人だけの望みではない。

あなたの望みは常に私の望みなのだ。







2、自己の希望を実現しえないで人生を終わってしまう人の何と多いことか。
 
彼らは私の存在を少しも認めようとはしなかった。
 
私はどんな時でさえも常に彼らの側にあり、彼らの望みを達成し得んが為に彼らを見守り導いてきたつもりでいる。
 
希望の成就は肉体個人一人で出来るものではない。
 
常に守護霊、守護神と共に歩んでこそ成就する路なのだ。
 
それが真実の人生の路なのだ。

   


 

3、出来うる限り明るく陽気に振るまいなさい。








4、私はあなたがいかなることをしようとも、決してあなたに罰を与えない。
 
私はただ、すべてを許すのみである。

そしてあなたのその罰を私が代わりにしょってあげているのである。
 
その代わりあなたは “消えてゆく姿で世界平和の祈り” を繰り返し繰り返し祈ればよい。

自分自身を深く信じなさい。

 


 

5、私はあなたにあえていいたい。
 
出来る限り明るい言葉や思いやり深い優しい言葉を常に、極力心がけて努力して使うようにし、光明思想の本を一日一回は読み、人の心を感動させるようなニュースを聞き、人と語り合う時には人の心を豊かに楽しませるような話題をあえて選び、明るいことのみを語るようにしてほしい。

そして暗いニュース避け、病気の話や人の不幸の話は出来るだけ口にしないことである。



 

6、羨望の心が湧くのも致しかたない。
 
嫉妬心にもだえるのもまたこれ仕方がないではないか。
 
そして人の幸福を妬み人の不幸を心ならずも喜ぶのもまた致しかたない。
 
人の心は感情によって左右されるものであるから、感情を無くさない限りこのようなことはすべて人の心の中に起こり得る現象である。
 
この世は物質肉体の世界、完全なる霊なる世界と違って不自由な束縛ある世界、よくないことだと充分にわかっていながら、正しいことではないと充分に理解していながら、神から反している行為だと充分に納得していながら、やはり現れてくるのが現実なのである。
 
おさえる必要はない、出すだけ出すがよい。

だが、出来るだけ人に迷惑がかからないように出してゆくのだ。
 
相手にまともにぶつからず、声を出して私にぶつけなさい、私にどなりなさい、私に非難をあびせかけるがよい。
 
私はあなたの心が充分にわかるだけに、あなたが愛しくて可哀相でならない。
 
私の大きな翼であなたを包んであげよう。
 
癒してあげよう。
 
心の中にある鬱憤をすべて私に吐きすてるのだ。
 
私が聞いてあげよう。
 
私が代わって祈ってあげよう。
 
あなたがあなた自身で祈れる時がくるまでは。

 偽善者 になるよりはよほどよい。






7、不調和な状態を一刻も早く自分の心の中から一掃せよ。

 



8、

あなたの内部の奥にじっとひそんで隠されている部分、秘密、嘘、葛藤、情欲・・・・それらのすべてを私は知っている。

私の前には何の隠しだても無用である。

ただ裸になることだ。

私にとっては肉体人間の弱さなどは百も承知の上だ。

だからこそ私というものが必要なのだ。

私の支えを必要とするのだ。

朝な夕なに私の名を呼びなさい。




9、

大自然の修復作用が発揮出来るよう大自然に代わって祈れ。




10、


あなたの希望を実現する場合、まだこの世の中に何の手ががりも見出せず、皆目何も無いところから全く新しい希望、この世に打ち出すそのきっかけを創造(つく)り出すのは、いうまでもないこの私である。
  
常に私の存在を忘れず私の名を呼びなさい。守護霊、守護神同士でお互いに交流し合うからである。


 

11、

人の悪を聞くために耳があるのではない。
 
人の悪を語るために口があるのではない。

人の悪しき姿を見るために目がついているのではない。

 


12、

相手を解放してあげると自己の束縛から解放される。

 


13、

すべてを見知っている私の前ですら未だ嘘、偽りでもって自分を覆いつくし、隠しだてをするつもりでいるのか。

情けない。

私はすべてを許そうと思っているのに。

私は(宇宙の法則)から絶対なる権限を与えられている。

あなたのすべてをゆるし、あなたのすべてを愛するのが私の働きである。





14、


あなたが私から離れてどこへ逃げようとも、隠れようとも、またどんな罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけようとも、それでもなお私は常にあなたの側を離れず、怪我がないよう、苦しまないよう、痛まないよう、見守りつづけているだけである。
 
私はあなたに嫌われていても、それでも尚あなたが愛(いと)しいし、愛しつづけているのである。





15、

私は肉体を持ちあわせていないので常にあなたの内部に働きかけ、内部の力を増し、調わせ、そのエネルギーを外界に現わし、そして出来るだけあなたの思うようになるよう、成就するよういたらしめているのである。

 

 

16、

私はあなたが暗く沈んでいる時、今まで以上に強い希望の光を投げかけている。
 
あなたが自分自身を傷つけ悲しみに浸っている時、すべては許されるのだという真理の光を送り、あなたに語りかけているのだ。
 
そして私の慈愛の光によって次第にあなたが真理に目覚めはじめ、その暗く果てしない入り組んだ道から脱け出してゆくあなたを見た時、私はあなた以上に天の神に感謝しているのだ。


 

17、

私は常にあなたに真理を語りつづけている。
 
あなたの心が全智全能の創造主と同じような強い力を握っているのだということを。
 
あなたは自分の心で、自分自身を幸せにも不幸せにもすることが出来るのだということを。
 
自分自身を、傷つけ暗く悲しいものだと思ったら、その通りの人生が展開されてゆくであろうということを。

そして自分自身を神の分け生命として認め、明るく大いなる希望をもってゆくならば、またその通りの人生が展開されてゆくであろうということを。
 
心はすべてのすべてである。
 
なぜならば、心は自分自身の運命の支配者であるからだ。



 

18、

私はあなたがいかなる苦悩、いかなる悲哀、いかなる絶望にあろうとも、必ずあなたを幸せにしようと心をくだいて見守りつづけているのである。

私の働きはあなたの真の幸せに導くこと以外の何ものでもない。


 


19、

 
私はあなたにお願いがある。この世は物質的肉体がすべてではなく、本来霊なる世界の写し世である、という事実を自覚してほしいのである。
 
霊的自我に目覚めたその時から、もはや何ものにもしばられぬ自由自在なる世界が、あなたの目の前に展けてくるのである。

それは無限の可能性を秘め、自分の思う通りになる世界となるのである。

 

 

20、

あなたは常に幸せを願うのだ。
 
あなたは常に神の無限なる能力を信ずるのだ。
 
あなたは常に調和を愛するのだ。
 
私はあなたのその望みにむかって全精力を傾けて、その実現のためにわがエネルギーをフルにあなたの心の中に注ぎこんでいるのだ。
 
だが、あなたの望みが常に暗く悲しく絶望的であるならば、その方向にむかってわがエネルギーを注ぎ込むことは、不可能である。
 
あなたの考えが明るく積極的な希望に満ち溢れたものに変わるよう、エネルギーを注ぎこむのであるが、そのエネルギーの消費量は並大抵ではない。
 
もともと+(プラス)の考え方を更に+(プラス)の方向に導き、この世に実現可能にせしめることは、宇宙の法則通りに実に簡単で無駄なエネルギーを消失しないものであるが、-(マイナス)の思考を+(プラス)に方向転換させることは、前者の何万倍ものエネルギーが消失されるものである。
 
 
常にあなたの考えを+(プラス)の方向に向けて生きて下さい。



 
 

21、

頭のよくない人ほど中途半端な聞きかじりをし、自分の知識をひけらかしたがるものである。

頭がよくないから善悪の批判力が無くすべて受動的に自分に吸収してしまうため、その人の潜在意識の奥にすべてそれらの中途半端な知識は溜めこまれてしまう。
 
さて、本人が病気になったり、挫折したり、失敗したりした時、これらの中途半端な知識が次から次へと頭を擡げ(もたげ)はじめ、自分自身の下らない知識で自分自身をがんじがらめにしばりつけ、また、自分自身の暗い思考力で自分自身を暗示にかけてしまい、どうしようもなく救われがたき状態においこんでいってしまうのである。
 
浅はかというより他にいいようがない。
 
知識ならどんなものでも入れていいというものではない。
 
本来ならば自分の心が勇気づけられ、希望に満ち溢れ、生きることの幸せが鼓舞(こぶ)されるような知識なら徹底的に入れこめよ。


自分の心を暗く不安恐怖に陥らせる知識は意識して取り払うべきである。



 
 

22、

“自分だけ悟ればそれでよい” という考え方は多分に利己的なわがままな生き方である。

これを出来るだけよい意味にとるとすると、人に真理を押しつけがましくするのは、たとえその教えがどんなに素晴らしくても、そこで必ず人の自由を縛りつけてしまうものであるから、よくないということであろう。

だが神のみ心からみたならば、真理を一人でも二人でも出来るだけ多くの人達に知らしめた方が積極的な善なる徳のある生き方なのである。

また何回も何回も重ねて自分の口を通して真理を語るということは、逆に、更に自分自身の潜在意識の中に改めて真理を吹きこむ形となり、自分の信念がまたここで更に強固に絶対的なものとなってゆくのである。

真理は何度も何度も繰り返し繰り返し語れば語るほどよい。

 

 

23、


旧き自己を捨て新しき自己に 蘇(よみがえ)るのが世界平和の祈りである。


どうにもならない自分をしっかりそのままつかんでしまった上、私はこんなにも悪い人間ですといわんばかりに、自分の悪を強調しても、誰も救われはしない。

むしろどうにもならない自分を一旦神の中に捨ててしまって、すべてを神の中に投げ入れていまうと、宇宙の法則にのっとった生き方が示されはじめる。









24、

あなたの長い間にわたる苦しみは私にはわかっている。
 
あなたの悲しみや痛みも私にはすべてわかっている。
 
そして更に今あなたの上に投げかけられている不安恐怖、今のあなたの立場ではどうしようもないのもわかっている。
 
私はいつでもあなたの心の叫びを聞き、訴えを聞き、その問題解決が一刻も早からんことを願い奔走しているのである。
 
だがあなたはこの私の心を知ってか知らないでか、常に自分自身の肉体の力でのりこえようともがいている。
 
だがよく聞いて欲しい、もはや肉体界でトラブルが現われはじめたということは、もう何年も、いや何千年も前に幽界で現れていたことを。

幽界で浄めることが全くできなかったが為に、この肉体界に現れはじめたのであるということを。

そのためにはまず幽界を浄め去るのが先決である。

それが出来るのはこの私である。

霊なる力で、霊なる光で、幽界を浄めれば、自ずと肉体界のすべてのトラブルは自然に解決されるものである。

私に頼りなさい。私を信じなさい。あなたが夢をみているその時ですら、私は闇を光に変える働きをあなたの為にしているのです。

あなたはあなた一人で生くるに非ず、私の生命と共にあって生くるなり。


 
 

25、

今あるとるにたらない小さな小さな幸福にさえも、神の与え給いしごほうびだとして感謝せよ。








26、

私は “神の子” であるという徹底的なる自覚がいかなる災いからもあなたを防ぎ、いかなる不幸からもあなたを脱出させる。
 
災いにも不幸にも絶対に波長が合わないからだ。







27、



私に徹底的に素直たれ。





  

こう生きよう

  
  
ある日の日々の祈り

 


あいつは嫌な奴だ、と思った時、その想いを世界平和の祈りに変えるのである。

憎悪の感情、妬みの感情、不安の感情が起った時、ちょっと意志を強めて、世界平和の祈りに想念をむけかえるのだ。

自分が失敗をしてしまった時、他人が失敗をしてしまった時、自分の心を傷つけ、他人の失敗をとがめる想いを、世界平和の祈りにむきかえてしまうのである。

日常坐臥(にちじょうざが)、あらゆる時間、私たちは世界平和の祈りの中に、自己の想念をおくのである。

私たちの正しい生き方は、世界平和の祈りの中から、さわりなく、誤りなく、自然法爾(しぜんほうに)的に日常生活の行動となってゆくのである。

真実に存在するものは神のみであり、その他のいかなる存在も、すべて消えてゆく姿である。




  

          「日々の祈り」 五井昌久 白光出版



 


  
感想


私たちは

日常生活を送っていくなかで

「あいつは嫌な奴だ」

と想うのはそれこそ

日常茶飯事です。

そして

「なんでいつもこんなことで感情を振り回されるのだろう?」

とその嫌な奴か、自分(寛容になれない自分)を責めてしまうのです。

私も随分、そんな想いを繰り返してきました。

そして自己嫌悪に陥っていたのです。

でも最近

嫌なことがあっても、嫌な奴が現れても

世界平和の祈りの中で日常を送っていると

いつの間にか

穏やかになっている自分に気づいたのです。

理屈ではないのです。

自分のもろもろの想念を世界平和の祈りのなかに入れていけば

感情が早く消えてゆくのです。

一瞬で消えることもある

穏やかに過ごせるのです。

人間は自力では心をコントロールすることは出来ないのです。

肉体人間よりももっと大きな力(守護霊、守護神)を借りることで感情を消すことが出来るのです。

目に見えること(3次元的なこと)は、自分でやり

見えないこと(自分の心や他人の心などのコントロール出来ないこと)は、目にみえない世界を司っている、守護霊守護神にお任せしたらいいのです。

この世の生活は

自分の努力と、守護の神霊との共同作業で整っていくのです。



 

世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)




  

      

2010年8月23日 (月)

竜馬伝におもう

  
    
昨日観たNHKの竜馬伝について述べてみたいと思います。

近藤長次郎が自害しました。

放映されていることを事実だとすると竜馬を裏切り、仲間を裏切り、亀山社中のお金でイギリスへ行こうとした。

渡英は失敗し、社中の規則により切腹をした。

竜馬と長次郎の違いは何だったのか?

それは志しが違ったのだと思うのです。

竜馬の心の中は、日本を善くしたい、変えたいという理念しかなく、そこには自分がどうしたいという私心がなかったのです。

あったとしてもそれは、日本という大きなものの中に溶けこんでいたのです。

日本の中に自分が居た。

先日に私が “最近感動した言葉” に書いた竜馬の言葉

「私心があっては、それは志しとはいえない」

がそれを現わしています。

一方、長次郎は竜馬と同じく日本を変えたいという志しを持っていたものの

「自分がイギリスに行きたい」という自分がの我が勝ってしまったのです。

肉体的欲望が勝ってしまったのです。


そして、その私心が両者を分けてしまった。


私たちは

「自分を持たなければならない」

「目的意識を持たなければならない」

と教えられてきました。

でもそれが

肉体(目に見えるもの、物質を満足させるもの)を意識したものなのか?


国や地球や宇宙を視野に入れた大きな志しの中の自分であったり目的意識なのか?


はそれこそ雲泥の差、天と地ほどの違いがあるのです。


自分(欲望)を持つのではなく、持っているもの(業想念)をはぎ取っていく

そして、心の中を空っぽにしてスッキリさせる

その空になった状態で

自然と行う行為が本物なのです。

幽界のオバケちゃんに取り憑かれた(自我欲望を持った)状態の志しは

自分も周りのものも不幸にして行くのです。


つくづく自分をスッキリさせること

自分の我を大きなもの(宇宙)に入れること

の大切さを実感します。わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)



   

  

生命の法則

  
 
  
ある日の日々の祈り   以下「愛、平和、祈り」より


いかなる生命も大生命からの分れでないものはなく、他の生命とつながりをもたぬものはない。

だから、他の生命への害心は、やがて必ず自己に戻ってくるもので、相手を害し放し出来るものではない。

また反対に、相手の幸福を願い、相手の調和を願う心は、これも必ず自己に戻ってきて、自己の幸福となり、自己の調和となるのである。


自己がいかに相手から痛めつけられ、踏みつけられ、侮蔑されたとしても、自己の心内に怒りを蓄え、復讐の想いを抱く時は、同時に自己の心は傷つくのである。

このような時、すべては過去世からの自己の業因縁の消えてゆく姿として、その痛苦を、自己の心外に放ち去る練習をつんでいれば、その人の業因縁は軽くなり、その人は真の幸福に一歩前進しているのである。




   

           「日々の祈り」 五井昌久 白光出版


 


感想



自己がいかに相手から痛めつけられ、踏みつけられ、侮蔑されたとしても、自己の心内に怒りを蓄え、復讐の想いを抱く時は、同時に自己の心は傷つくのである。

このような時、すべては過去世からの自己の業因縁の消えてゆく姿として、その痛苦を、自己の心外に放ち去る練習をつんでいれば、その人の業因縁は軽くなり、その人は真の幸福に一歩前進しているのである。


その痛苦を、自己の心外に放ち去る練習 


これをしていないから私たちは苦しいんですよね げっそり

痛苦を溜めずにとてつもなく大きなものに放つ祈り言葉が

世界平和の祈りなのです。




世界人類が平和でありますようにぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  


 

真愛の持ち主になろう

 
  
ある日の日々の祈り

 

自己の心に感じられてくる相手のマイナス面、嫌な言語動作、それはすべて業(カルマ)の消えてゆく姿であって、相手自身の生命(本心)から発しているのではない、ということが、瞬時に理解出来るようになれば、その人は深い真愛の持ち主ということになります。


愛の心とは、人間の業想念行為を把える心でも、相手の誤りを把える心でもなく、また、自分自身の業想念感情の満足や利点のために、相手と融合し、仲良くすることでもないのであって、ただ純粋素朴に、自己の生命が相手の生命と一つになることなのであります。


イエスキリストは全くこの愛を行じ得た聖者であったのです。


          *

真実の力は肉体自身にあるのではなく、神の中にある。






  
                   「日々の祈り」 五井昌久 白光出版






 

イエスキリストの愛

  
  
  
ある日の日々の祈り
 



イエスキリストが、十字架にはりつけになった時、自分をはりつけまで追いやった人のために

“神よ、この者たちを赦し給え。彼らは真理を知らざるがためにこの罪を犯したのですから”

という意味の言葉をいっています。

なんと深い、偉大なる愛の言葉でありましょう。これこそ真の愛であり、人間すべてを感動させる聖者の心であったのです。

 私はこの言葉を想い出すと、涙が出てならないのです、

ああなんという高い心境であろう、なんという澄みきった言葉であろう、とおのずから心が愛に充ちてくるのです。

愛とは単に言葉に現わしていうだけのものではない。自己の生命全体が、相手の生命ととけ合って、はじめて生まれてくる感情であり、その純粋感情によって行われる行為こそ、愛の行為といえるのです。




   

       「日々の祈り」 五井昌久 白光出版






 
感想



特に最後の



愛とは単に言葉に現わしていうだけのものではない。自己の生命全体が、相手の生命ととけ合って、はじめて生まれてくる感情であり、その純粋感情によって行われる行為こそ、愛の行為といえるのです。


この文章を読んでいるだけで心が洗われる心境になります。ぴかぴか(新しい)

なぜ、キリストがここまで高い心境であったかというと

人間はみな、一つの光(神)から分かれた、分霊(わけみたま)であるということと(自他一体観)

今のその人の行為は、本心からではなくその人に業(カルマ、間違った想念)が覆っているからである、その人が悪いのではない

という真理がわかっておられたからなのです。

私たちはそれがわからないので自分を守るために相手を責めるのです。

真理(キリスト)を識ることは祈りと共にとても大切なことなのです。




 
世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)



  

   

2010年8月22日 (日)

いちいち善悪を比較するな

  

  
ある日の日々の祈り


 
相手が悪い、自分は善い、と相手と自分をいちいち比較しているような想いでは、とうてい真実に相手を愛することはできないもので、相手も自分も、悪いも善いもすべて守護霊守護神の神愛のなかに投入することの練習が一番よい方法なのです。

自分のほうが善いと思ったところで、過去世からどれほど間違ったことをしていたかは、現在の自分にはわからないのであって、自分のほうが善い、と思うその想いは、ごく最近の出来事によるだけのものであるので、過去世からのその人の行為の何兆分の一かもわからないのです。

善い悪い等はいちいち自分で判断して、人を責めたり、自分を裁いたりするものではないので、自分は瞬間瞬間を神のみ心に波長を合わせつつ行為していればよいのであります。





     
          「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





 
感想


この文章で過去世からのその人の行為の何兆分の一かもしれない とあります。
これは、過去世において自分が相手に対してほとんどひどいことをしてきて、自分は今生では何をされてもしかたがない関係になっていた。でも今生だけをみてみれば自分は悪くない。と言っているのです。

でも、トータルでみれば、1兆 : 1 で完全に負けて(善い悪いでは)いるのです。

完全に自分が悪い(かもしれない)!

しかし、そんな対比をして、分析してもしかたがないのです。

少し個人的な話になりますが、ある人と出逢ってすぐは、人間関係は上手く行っていたのに、途中からたいした理由もないのにギクシャクして、相手が怒って来ることがあります。

嫌われることもあります。

これは相手の人の心(魂)が、過去世のことを想い出したのだと思うのです。

でも、そうとは知らないので、

「何故なんだろう?」

と考えてしまう

分析してしまう

比較(善悪を)してしまう

でも、何千年前、何万年前に起こったことなんてわからないですよね。

考えれば考えるほどわけがわからなくなる・・・・・・。

そんな こんな

ああだ こうだ

と頭で考えてしまうことを

すべて宇宙に還してしまうのです。

そこからどうしたらいいか?

を天に預けて、戴き返してもらう

神様にすべてをお任せする

一番いい状態にして返して戴く

それが世界平和の祈りなのです。




世界人類が平和でありますように



   

自己の職場に真剣に打ちこめ

  
  
  
ある日の日々の祈り

 


肉体的行動にうつした活躍は、派手でもあり、いかにも働いているという自己満足を得るのですが、私は、そうした肉体的行動、活躍は自己の職分を通してやればよいと思っています。
 

自己の職場に真剣に打ちこんでいることは、天命をまっとうしている姿であって、浮ついた社会活動や、愛国運動、真理(神)を知らない思想活動より数等まさった行動であるのです。
 

自己の職分に忠実であり得ぬ者が、真の愛国運動、人類活動が出来るはずもなく、真に国を愛さぬ者が、人類平和のための働きが出来るわけがないのです。


職場における己れの不満、家庭における不満のうっぷんを晴らすために社会運動に走ったりするようなことでは、その人自身救われようもないし、社会のためになる働きが出来ようわけがありません。



 

            「日々の祈り」 五井昌久  白光出版


    

  
 
 感想


今生を生きるのが辛くなって、神の世界、宗教、神秘的な世界に逃避している人がいます。

でも目に見えない世界(4次元)は、3次元の終わりにあるのであってつながっているのです。

3次元を一生懸命に生きた人のみ、4次元(神)、本当のこと(真理)がわかるようになるのです。

だから最後の文章の

職場における己れの不満、家庭における不満のうっぷんを晴らすために社会運動に走ったりするようなことでは、その人自身救われようもないし、社会のためになる働きが出来ようわけがありません。

はもっともなことなのです。



    



自他を生かすもの

  
  
ある日の日々の祈り
 

  
愛とは、自分の生命をいかすと同時に、他の生命も生かすものでなければなりません。
 

愛することによって、自分の生命がいきいきとし、愛されることによって、その人の生命がいきいきとしてくるものでなければなりません。

自他の生命がいきいきとし合うようでなければ、それは真の愛とはいい得ないのであります。
 

ところが現実は、愛するという名目の下に、相手を縛り、自己の生命の自由をも縛りつけている恋愛や、親子愛が、いかに多いことでありましょう。

自己が楽しむために人を愛そうとしても、それは愛ではありません。

それは自己主義の業想念であります。

自分というものがその人の想いのなかにあることは、もうすでにその人を愛から引き離しているのであります。

          「日々の祈り」 五井昌久  白光出版




   

相手の因縁を思いやれ

  
  
  
ある日の日々の祈り


 
どんなに業因縁の深い人でも、信仰の浅い人でも、それはあくまで過去世からきているものであって、その人自身ではどうにもならぬ運命なのであります。

そうした悲運の人々をおまえは信仰が浅いと責めたとて、いったいどうなるものでありましょうか。

私は私によってくるそうした人々は、ただ黙って受けとめて、ひたすら神の光明をその人々の肉体、幽体、霊体にあてているだけなのであります。

業因縁の薄い人、はじめから信仰心の深い人は、実に幸せな人であります。

その人々はみずからの信仰心の深さを、祖先の人々に感謝しつつ、世界平和の祈りを一層なしつづけ、業因縁の深い人、信仰の浅い人々の天命のまっとうされる応援をしてあげるとよいと思います。




    

             「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





  

人間は誰かに愛されたいのです

  

  
ある日の日々の祈り


 
愛のない説教などは個人指導においては、なんの効果のないばかりでなく、かえって人の心を傷つけるぐらいなものであります。

私は私のところにくる人々には、声にでる言葉で説くよりは、世界平和の祈りを心のなかでしながら、特にその人の天命のまっとうされることを、守護の神霊に祈ってやりなさい、と教えているのです。


人は愛されたいのです。人類すべてに愛が必要なのです。


愛とは説教でも小言とでもありません、柔かい温かい明るい光の波であります。


全身全霊から愛の光がほどばしりでますように、愛の光でみちみちている自分になりますように、私たちの祈りは、世界平和の祈りを根底にして、こうした愛の祈りの日常生活でありたいものです。




    
            「日々の祈り」 五井昌久 白光出版





   

本当の愛とは (生命の一体観を)

  
  
    
ある日の日々の祈り

 

肉体人間としての自己がここにあって、相手を愛するのではなくて、自己と思う想念が消えはてて、相手の心と一つの流れになった時、なんのこだわりも、なんの苦悩も、なんのわずらいもない、純粋無垢なる生命の交流、神の愛がそこに現わされてゆくのであります。

私のためとか、あなたのためとか、そうした自我をもった想念で自分や人を愛したようにみえても、その愛の中には、どこか純粋無垢でない、業想念の片鱗がみられるものです。

自分はあくまで、自分自身の立場に立ちながら、しかも自分自身がその場に消えて、相手の心と一つになってしまう。

一つになった心のなかには、神のみ心がいきいきと光輝いている、というのが、愛の本然の姿なのであります。




   
           「日々の祈り」 五井昌久  白光出版



 


 

感想


愛ってむずかしいですよね。

そして本当の愛とは純粋なもの、混ざり気がないもの、美しいものだと思います。

自分の心の中に、わかって欲しい、感謝して欲しい、愛して欲しい・・・という自我欲望がほんの少しでもあったのならそれはもう愛とはいえないのです。

人間が愛だと思っているほとんどの愛は、本当の愛ではなく、取引きであると厳しいことが「神との対話」という本に書いてありました。

「厳しいなぁ」とも思いますが

確かに少しでも自分の心の中が汚れていたのなら、この意味はわかってしまうのです。

他の人が気づかなくても(愛だと思ってくれていても)

自分の心は誤魔化せない

だから私たちはいつも心を綺麗に(ピュア)にしていなければ

生きていけないのです。(苦しくなるのです)

地球の想念は汚れているから大丈夫だ

少しくらい汚れてないと生きるのが却って苦しくなる

なんて考えもあるかもしれませんが

それは、やっぱり誤魔化しで生きているのです。

途中では(プロセス)汚れていることが必要なことがあっても

そのまま汚れたままでいくことは出来ないのです。

なぜならわたしたちは光の子、神の子だからです。

汚れていることが生命を生き生きとさせないことがわかっているからです。

でも、汚れたものはしかたがありません。

しかし、汚れたものをそのままにしておくのではなくて

洗濯すればいいのです。

汚れたら汚れがこびり付かないうちの洗濯をする。

それが出来るのが祈りなのです。

祈りしか心を綺麗にする方法はないのです。わーい(嬉しい顔)手(チョキ)

神様がこの祈りで心を綺麗にしなさいと言っておられるのです。わーい(嬉しい顔)

 



世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




  


2010年8月21日 (土)

心ここにあらざれば

  
  
ある日の日々の祈り

  
人間の存在というものは、その場所に肉体がいなければ、その人が存在しない、というものではなく、またその人の肉体身がそこにあるから、存在しているというものでもなく、そこにその人の心のひびきが伝わってきているか、きていないかによって、その人がそこに存在するかしないか、ということになるのです。

その人の心がそこになければ、肉体身がそこにあっても、その人がそこにいないのです。

大勢の人が同じ部屋にいたとして、その各自がお互いの家人や知人のことを思いつめている時に、その人の心はその家人や知人の所にいるのであって、その部屋には単に形だけが存在しているだけで、その人の実体は、家人や知人の所にいることになるのです。




      「日々の祈り」  五井昌久 白光出版





感想


うわの空とか、心ここにあらずとは、魂の抜けた様な状態をいいますが、肉体がそこにあっても心がそこを意識していなければいないのと同じということなんですね。

そのことで思い当たるのが、お墓のことです。

私たちは、死んでしまった人とはお墓に行かないと逢えないと思っていますが、そこ(お墓)にはその人の魂はありません。(千の風になって♪の歌にもありますよね)

肉体の一部(骨)はありますが、骨には魂は宿っていない。

だから、お墓に行かなくとも、その人のことを想い出すだけでその人と心の共有、交流は出来るのです。

なぜなら人は死んでも魂は永遠に生き続けるからです。

肉体とはなんなのか?

それは器なのです。

宇宙(神様)から降りて来るエネルギー(直観)を肉体に真っ直ぐに降ろすための器なのです。




神界(宇宙とつながっています、本心のあるところ)

霊界

幽界

肉体界



神界には本当の自分が居るのですが

霊界(上部は澄み切っていますが下部は少し汚れている)

幽界(潜在意識の世界、前世の想念が溜まっている場所で汚れている)

肉体界(幽界の想念がそのまま写って来ている)

を通って来るうちに段々とエネルギーが歪んで来るのです。

真っ直ぐな棒を水の中に入れると曲がって見えるのと同じです。

つまりうわの空とは

宇宙からのエネルギーが真っ直ぐに降りていなくて肉体に本心が入っていない状態なのです。

この様な状態のときに

失敗をします。

魔が差します。

幽界のオバケちゃんに取り憑かれるのです。

自分が自分で無くなる・・・・。

それくらい、自分の心をしっかりと持つことはとても大切なことなんです。

祈りは神界にある本心と真っ直ぐにつなげて波動調整をしてくれるのです。

いつも安心立命した不動心の自分に戻してくれるのです。


人間は不動の心でないと正しい判断が出来ません。

正しいという字は

天(一)に止まると書きます。(一という感じは天と地を現わしています)

つまり天と地を貫く光の柱の中に自分が入っていないと本心とはつながらないのです。ぴかぴか(新しい)

本心とつながらないと違う自分になってしまうのです。

マイナスのエネルギーを受けてしまったり、人の想念をもらったりする。

だから本心と違う自分との狭間で悩むのです。

悩むとは闇が波のようにやって来ている状態です。

悩みを無くすには、光を当てるしかないのです。ぴかぴか(新しい)

光の柱の中に入るしかないのです。

光の柱に入る方法が

世界平和の祈りであり、印であるのです。

私たちは肉体界だけではなく

いろんな世界(神界、霊界、幽界だけでなくホントはもっとたくさんの世界がある)に生きているんだということを知ってください。

そして、自由自在心とは、色んな世界に把われない、振り回されない、惑わされない、神界の自分(本心)としっかりとつながっている状態をいうのです。


人間はどれだけ物質的に満たされても、心が自由にならなければ本当の幸せにはなれないのです。





世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます





  

 
  

2010年8月20日 (金)

日々の祈り (母の愛)

 
  
8月20日、日々の祈りより
 



母親がみずから貧しい食事をしながら、夫や子供たちにはご馳走を食べさせて、その喜ぶ姿を見て心のからの満足を感じている姿は、よくみかける日常生活中における愛行為ですが、その母親にとっては、みずからの粗食などは、夫や子供の喜びにひきくらべると、問題にならぬものであるのでしょう。

その時の母親の心は、全く夫や子供のなかにとけ入っていて、知らぬ間に自我欲望をこえているのであります。

その母親はむずかしい理論をぬきにして、自他一体観を確立しており、自己の生命を夫や子供のなかに大きく拡げているのであります。

彼女はおのずからなる愛念によって、神のみ心を味わっていたのです。

こうした小さな愛行によってこの世は支えられていることが多いのであります。



  
    

         「日々の祈り」 五井昌久 白光出版








 
感想


自分では何にも考えていない、ごく自然に当り前のようにやっている、相手に喜びを与え、そしてそれが自分の至福の喜びになっている、神様の愛と同じような包み込むような愛になっている。

これほど素晴らしいことはないと思うのです。

そこには自分というものがない

大きなものに融け入っている

自他一体観・・・・・。


母親の愛って素晴らしい!

人間って素晴らしい!

ですよね わーい(嬉しい顔)
 




   

 

自分を整える

  
  
  
私たちは息を(吐いて)しているのと同じように、エネルギー(気)を出しています。

これをオーラともいいます。

その気が健康ならば、元気といい、陽気であったり、いい気分であったりするのです。

反対に健康でない(正常でない)場合は、陰気になったり、気分が落ち込んだり、気が病んでくるのです。

これが病気のもとになるんですね。げっそり

そして発している気(エネルギー)がプラスで愛に溢れ調和したものであれば、それに共鳴したものがやって来るのです。


気(エネルギー)が集まったのが波になっている。

これが波動です。

わたしたち人間もこの気(エネルギー)が集まった波動体で出来ているのです。

わたしたちだけでなく、宇宙のすべてのものは、目に見えるもの(物質波動)も目に見えないもの(精神波動)も細かい粒子の波で出来ています。

すべては波動なんです。

だから自分や地球、地球以外のすべてのもの、すべての人類を善くしていこうと思ったのなら

自分が発している波動を調和な平和な愛に溢れたものにしていくことがなによりも大切なことなのです。


これを波動調整といいます。(本来の自分に還るという意味です)


これがわたくしのやっている調和波動気功なのです。

自分の出しているエネルギーを整えていく

響きをより善いものにしていく

調和波動のことを




ハーモニーウェービィングモーション


といいます。


ハーモニーウェービィングモーション


なんともいい響きですよね。 わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)

そして気功とは

エネルギーの働きのことです。

気とは実は神様のことなんです。

宇宙からのエネルギーといってもいいと思います。




気功とは何ですか? 

幽気、霊気、神気の気の働きであり、神様の働きである。

日本語の「気を付けて」は英語で「Good bye」=「God by you」であり、スペイン語で「Adio’s 」の dio’s は神の意味である。


「気」とは神の意味である。 (于先生のご著書より)




私たちは光の波動体です。ぴかぴか(新しい)


だから放っている光をキラキラと輝かせていることが大切なんです。ぴかぴか(新しい)

気(神様からのエネルギー)を整えていつも宇宙とつながっている状態・・・・。


そのために祈り、印を組む


それは、宇宙人(神の子)として


ごく自然なことなのです。





世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和







調和波動気功法とは 

http://homepage2.nifty.com/hmwave_goldendoor/


オーラ・オーラもよろしくお願いします。

http://auraaura7.com/


そして私も個人レッスンをしています。


グッドムーン気功教室


ホームページ作成予定 わーい(嬉しい顔)


  

2010年8月19日 (木)

最近、私の心に響いた言葉



  「技術を磨く前に人間を磨け!」

  「人間の成長なくして技術の成長はない!」




              
                   元楽天監督の野村克也さん







  「私心があっては、それはこころざしとは云えない」




                  竜馬伝の竜馬役福山雅治さん





  
  「うちの人は本物ですけん」


              
                 ゲゲゲの女房役の松下奈緒さん




  

本心と業想念

  
  
  
ある日の日々の祈り


普通の人は、心は一つしかないと思っているのですが、私は一つの心、つまり神の直霊分霊として働いている心を本心と呼び、その本心の周囲を何重にも巡っている波動(ひびき)を想念と呼んでいるのです。

たとえば、本心の働きによって生命が滞りなく素直に活動していて、肺臓も心臓も胃腸も丈夫でいたとします。

そこへ癌で死んだ知人があったりすると

“ああ私も癌になりはしないか” とふいっと思います。

このような本心の働き生命の働きを、ちょっと疑うような心の動き、そうした心の動きを、私は心とは呼ばずに業想念と呼んでいるのです。

もっと端的にいえば、神のみ心に素直につながっている心だけを、心と呼び、神のみ心を離れた心の波動は、すべて想念と呼んでいるのです。





            
                        五井昌久





 

感想

ほとんどの人は、この本心と想念の違いがわからないと思います。

私もわかっていません(笑)

ただ、世界平和の祈りを祈り続けているときや、心を鎮めて、統一しているときにふっと浮かんでくる(頭からではありません)ことは、本心かな?


と思います。


でもすぐには信用せず、時(タイミング)を待ちます。


その繰り返しをしていくうちに本心がわかるようになるのだと思っています。



  
  

霊覚者とは

  
  
ある日の日々の祈りより

 


現界での想念を、何重もの現界及び幽界霊界(過去世)の潜在意識層をこえて、まっすぐ宇宙神のみ心の中に融け込ませてしまった人をいうのでありまして、このような人はいかなる過去世からの想念波動(因縁因果)にも、幽界霊界からの想念波動にも把われることなく、自由自在に宇宙神のみ心み光を、宇宙一杯に働かすことができるのであります。


釈迦牟尼仏(お釈迦様)などはこうした人であったわけです。

こうした霊覚者は、神のみ心のままに自由自在に自己の本心を働かすことができるのですから、神のみ心である、愛と調和の行為に欠けることがなく、愛そのものであり、調和そのものであって、愛の行為にもとったり、調和のひびきを破ったりすることは絶対にないのであります。




          

                     五井昌久





感想


霊覚者は、

神のみ心である、愛と調和の行為に欠けることがなく、愛そのものであり、調和そのものであって、愛の行為にもとったり、調和のひびきを破ったりすることは絶対にないのであります。

とあります、これはどうしてそうなのか?といいますと

霊覚者は宇宙と一体、神と一体となっているのであります。

つまり、宇宙の法則の通りに生きている。

宇宙は完璧です、パーフェクトなのです。

その宇宙と一体となっているのですから間違いがあるはずがない

そして宇宙を神といいます。

神は愛です。

か~あ

み~い

これはお釈迦様だから霊覚者になったのではなく

私たち人間もみんな霊覚者なんです。

ただ今はまだその姿が顕われていないだけなんです。

余計なもの(過去世の汚れた想念、業、カルマ)が消えていけば

みんなお釈迦様のような霊覚者なのです。

世界平和の祈りを一生懸命に祈っていると

余計なものが取れて

霊覚者になるのです。わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)


 


世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  


 

霊能者と霊覚者とは違う

  
  
ある日の日々の祈りから

  

霊能者とは一般の人々には見えもしない姿や声を聞いたり、人の想いがわかったり、運命がわかったり、過去世における状態がわかったり、医薬を使わないで人の病気を直したりする人をいうのです。

そうした人々はその人の人格の高い低いにかかわらず、霊能者といわれます。

だから運命の予言や病気直しは上手だが、人格としては頂きかねるという人もあるわけです。

人の想いがわかったり、運命の予言ができたり、病気を直すことが上手だったり、肉眼で見えない世界が見えたり、という能力があったとしても、その能力がかえって相手の本心開発を遅らせる、自我欲望達成の具となるだけだったら、その霊能者も相手の人も不幸であるばかりでなく人類の進歩にもよくないことになるのです。



  

               五井昌久





 
感想
 

私たちは現世利益にこだわります。

すぐにお金持ちになりたい、すぐに病気が治って欲しい、すぐに善い事が起って欲しい

そして魂の成長よりも、今(現世)の利益を追ってしまうのです。

でも、私たちの本当の親である守護霊、守護神たちはそんなもの(現世利益)などはどうでもいいと思っておられるのです。

かえって魂の成長には、邪魔なものだと思っておられるのです。

なぜなら、魂は永遠だから、現世のほんの一瞬の出来事なんて問題にしていない。

そんなものが一時的に善くなったところで、永遠の生命からみれば取るに足らないことなんです。

それよりも魂が進化していくことの方がずっとずっと大切なことなんです。

でも私たちは違う

そこで肉体人間の浅はかさと守護霊様、守護神様との考えの違い、ギャップが出て来るのです。(それが私たちの悩みになるのです)

なんにもわかっていない肉体人間は、魂の成長を放っておいて現世利益ばかりを求める

守護霊、守護神は時期を観て本心(神)の方を向かそうとしている。

真理に目覚めさせようとしておられる。

肉体人間と守護霊、守護神の間に入って、絶妙のさじ加減が出来るのが、霊覚者なのです。

守護霊、守護神様が子どもであり、孫である肉体人間にとって一番よい方法をわかりやすく伝える役割りを荷うのが、霊覚者なのです。

しかし低い意識の霊能者は、ただ現れて来た現象を表面的なものだけを良くしようとしている。

肉体人間にとっては、ありがたいことなのです。

でも永遠の生命からすると余計なことをされてしまっているケースが多いのです。

病気や貧乏は大切なことに気づかせるためにわざと守護霊、守護神がさせているのです。

やろうと思えば、守護霊守護神は肉体人間の病気なんて一瞬で治すことが出来るのです。

でもそんなことをしても魂の成長にはならない・・・・。

守護霊、守護神様が本当に伝えたいことは、

「お前の中に神がいるんだよ」

なのです。

自立させようとしておられるのです。

「お前の中に神があってどんなことでも出来る力を持っているんだ」

それが究極の真理なのです。

それがわかるために何回も何十回も何百、何千、何万回も輪廻転生をしてきている。

それが台無しになってしまう。

病気を治すのは、お医者様の仕事だし、自分の中の自然治癒力(自分が神であることを知って)で治していくものです。

霊能者の使命(ミッション)ではないのです。

霊覚者であれば、魂の成長を推し量りながら、守護霊守護神と相談しながら、指導を受けながら治すこともあるのです。


ただ治すのとは、雲泥の差なのです。


「医者なんかになにが出来る」

「俺は人の病気を治すことが出来るんだ」

という浅はかな霊能者は自分自身も滅ぼすし、相手の魂の成長も遅らせることになる。

そのことを知ることはとても大切なことだと思うのです。



  


2010年8月18日 (水)

不安をこえるには

  
  
ある日の日々の祈り


 
職がなくなったらどうしよう、病気になったらどうしよう、親が死んだらどうしよう、夫を失ったらどうしよう、老人になったらどうしよう・・・・・思えばきりのないほど恐怖の種はあります。

それはいずれも自己の生命存続のための恐怖なのです。

金がなくとも、職がなくとも、食べなくとも生きていられる、という道があったら、どれほど心安まることでありましょう。

ところが現実の生活ではそうはいかない。

しかしこれを裏返しに考えてみると、金があり職があり何の不自由がなくとも、死病にでもなったらどうでしょう。

心の安定はほとんどの人が失ってしまいます。

心の安定を得るということは、金でも職でも体の自由でもなく、永遠の生命を得るということにあります。




         「日々の祈り」  五井昌久 白光出版





  
感想


幸せになる とは心が安定することだと思うのです。

でも多くの人はどうしたら心が安定するのかを知らないのです。

だから不幸がなくならない・・・・・・。

人間とは、肉体だけでなく、肉体が無くなっても(つまり死んでも)魂は、心は、生命は永遠に生き続けるのだ ということが心の底からわかった時

自分が創造主(神)であると識ったとき

永遠の幸せを得ることが出来るのです。

一切の不安が無くなるのです。

その、心の底から永遠の生命を得る方法が

祈りなんです。

祈りとは、生命(いのち)がのりだすという意味です。

生命が生き生きとしてくるのです。

祈り続けていると

いつの間にか

永遠の生命(宇宙)とつながることができるのです。





世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



   


    

すべてには “時” がある

   
  
ある日の日々の祈り


個人においても国家においても人類そのものにおいても、時というものがあるのでして、老子や孔子や釈尊やキリストのような大聖者が現れても、時至らねば、その生まれた国さえも平和にできなかったのです。

昨日までの怠け者が、今日忽然と真人間になったいう話もあるのであって、いついかなる時に、悪者が善人になるかもわかりません。

すべては本性は神の分生命であって、悪と現われ、怠惰と現れているその様相は、過去世の因縁の消えてゆく姿に他ならないのです。

人類すべて一人残らず神の子でないものはありません。

ただ過去世からの蓄積された妄念の現れてきている姿が、悪であり不幸をつくる種でもあるのです。

そう思うと、この地球人類も見捨てたものでもありません。



     
   
         「日々の祈り」 五井昌久  白光出版 





 

感想


私は観たことがないのですが、テレビのドラマで悪い人が段々と善い人になって行き、善い性格だった人が悪い人になっていくという内容の番組があるそうです。

私も、昨日まですごく親しくしてくれていた人が、ある事がきっかけで人が変わったように目のかたきにされたことがあります。

恋愛なんかでもそうですよね

つい最近まで、好き合っていたのに、何かちょっとしたことがあってから嫌われたり、相手に他に好きな人が出来ると今まで付き合って来た人が煩わしくなってきたりする。

女心と秋の空とか

かわいさ余って憎さ百倍とか

人の気持ちは絶えず変化しており

人間関係には、安心するということがないのです。

それは人間が感情を中心に生きているからです。

怠け者も感情や業に負けている状態ですが

ある時に強烈な光が入ってきてぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)

「これではいけない」

と心境に大きな変化があるのだと思うのです。

それがタイトルにある

“時”

なんでしょうね。

今、

「これではいけない!」

と思って

自分を変えようとしている人がかなりたくさんおられるのです。

于先生(私のメンター)は

「もう火がついています」

とおっしゃっておられました。

これからたくさんの人が真人間になっていくのです。

真人間とは真理に目覚めた人のことです。

昨日まで、悪人だと言われていた人が忽然と善人になる

だから

私たちは悪人をそのまま悪人と観るのではなく

その奥にある“神性”を観なければならないと思うのです。

そうすればその人はもっと早く(光が当たるので)

善人になるのです。

だからその人(悪人と観られている人)の天命がまっとうされることを祈りましょう。





世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたち(○○さん)の天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




  


    

2010年8月17日 (火)

囚人たちの神性を拝んだ老僧

  
    
ある日の日々の祈りより

 

ある老僧が刑務所に講話にいった時、前に並んだ囚人たちを見て 

「ああ仏さまたちがおかわいそうに、こんなお姿でここにいなさる。ああお気の毒な仏さま方」といってハラハラと落涙されつづけたそうです。

すると囚人たちは、その老僧の真実こもった涙に、声をそろえて泣き出し、スッカリ心を浄められたということです。

この話などは、一言の説教も、一言の訓戒もせず、ただ囚人のなかのみ仏の姿をみつづけた老僧の心が、囚人のなかから仏性を呼びさませしめたのであります。

人間はすべて神の子、仏の子であります。

悪とは神仏を離れたマイナスであって、その人の本心のなかにあるのでありません。

悪や不幸はすべて消えてゆくより仕方のないものなのです。





               五井昌久

 



感想


この話などは、もうじき訪れるアセンション(次元上昇)とはなんら関係のないものと思われると思われますが、実は、アセンションとは人間にこびり付いている業(ごう)、カルマが取れて、奥の輝いている神性が顕われることをいうのであります。

この老僧は、囚人たちの心の奥に輝いている光が見えたのです。

私たち(一般の人)には見えない光が、老僧、聖者、悟った人には見えるのです。

どんなにくすんで心の光を闇で覆われている人でも必ずその奥には、キラキラと輝いている本当のその人が居るのです。

私たちも自分の心を磨いていけば、この老僧のように今がどれだけ悪く現われている人でも、現象でも、その本質(光)が見えるようになるのです。

そうすると悪は存在しないのです。

元々、悪なんて存在していない。

私たちの心に悪と共鳴する業が残っているからです。

業と業が共鳴して、悪に見えるのです。

だから私たちはいつも、自分の心をピッカピッカぴかぴか(新しい)

磨いていることが大切なのです。

磨いていると光出して、その光に闇が寄って来る。

太陽に雲がかかってくるのです。(しんどくなるときがあります)


だから又、磨く

その繰り返しなのです。

ですから、心が落ち込んだとしても

それは、よりいっそう輝くためのプロセスなんです。わーい(嬉しい顔)手(チョキ)

プラスから出たマイナスなのです。

だから、自分の心の落ち込みなんか気にしないで

たゆまない祈りを続けていくことが大切なんですね。





世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

私たちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




    


2010年8月16日 (月)

子への執着をこえる道

  

  
8月28日の日々の祈り
 



自分も子供も直霊から生まれてきた分霊(わけみたま)であり、一つの分霊の自分が、祖先の霊の分霊であるいいかえれば、ある祖先の魂の子である生命体を、自分の家に一時あずかって育てているのであって、それをうまく育てさせているのは、眼には見えぬが、その子の魂の親、ある祖先、つまり守護霊様がなさっているのであるので、自分がとやかくいわなくとも、その守護霊さんにお願いしてさえいれば、子の守護霊さんが、子のためにも自分のためにも、万事都合のよいように導いて下さるのだ、と信ずることなのです。


そして、自分の天命と子供の天命のまっとうされることを守護霊守護神に感謝の想いで祈りつづけてゆけばよいのです。




            五井昌久





感想


自分が親なのだから、子どもをしっかりと教育しなければならない、 という驕りが子どもの反発を生むのです。

なぜなら本当の親は自分ではなく、その子の守護霊様だからです。

この事実を受け入れるのは辛いことなのかもしれません。

でも、本当のこと(真実)がわからないと自分も子も不幸になるのです。

それは、執着が無くならないからなのです。

子は縁のある祖先から、一人前に独立(経済的にも精神的にも)するまで預かっているにすぎない。

一人前になれば一切の執着を捨てて、社会(世間に)に、そして天にお返しするものなんだ

ということだと思うのです。

なんだか、かぐや姫の物語のようですね。
夜  満月




世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  


 
 

親の心がまえ

  
  
  
8月27日、日々の指針より
 


神は人間の根本であり、人間そのものである霊の親であって、永劫に離れ得ぬものであり、人間の親子は、生命の親子ではなく、生命の器である肉体における親子であって、肉体的における生命の活動が子自身においてなし得るようになれば、親とは全く別個の肉体人間となり得るのであります。

この相違をよく考えないと、親はつねに不幸になるのであります。

子は自分のものであると親が思っている以上は、子に対して執着が出るのは当然であり、子に対して自分の要望をかぶせ、自己の意志を強いようとする態度に出がちなのであります。


この執着を逃れる道は、親も子も生命においては兄弟姉妹であって、真実の親は神の他にはないのである、という真理を知ることなのであります。



     

                 五井昌久



 

感想


お盆になると先祖のことを想い、親子関係についても考えるときなのであります。

私も子の親であり、親(両親は健在です)の子でもある。

子とはなんだろう?

親とはなんだろう?

と考えた時

親子とは、肉体界でつながってはいるけれども

本当の親子ではない

仮の親子であると気づいたのです。

だからと言って薄い縁であるとか

大切に思わなくてもいいとかでは全然ないのです。

間違った考え方

つまり自分の所有物(特に子に対して)だと思うと

辛い(不幸)ことばかりが起ります。

でもそれは自分の執着がそうさせているのであり

子が親不幸をしているのでもなんでもありません。

子が自分の所有物であるという誤解を理解し

執着がなくなったとき

不幸も無くなるのです。

そして心の親は

自分を創ってくれた神(宇宙でも大自然でもよいのです)だと気づくのです。





世界人類が平和でありますようにぴかぴか(新しい)



  


  

どんな仕事にも真剣に立ちむかえ!

  

    
夏休みの間(3日間ですが)、パソコンのない妻の実家で本を読んでいました。本

日々の祈りは、その日に書いてあることでピンと来たことを書こうと思っていたのですが、他の日に書いてあることでもかなり響く言葉があるのです。

ですから、日にちには関係なく自由に書いていこうと思います。

そこで今から書き写していくのは仕事に関することです。

私たちは何故、今の仕事が自分に与えられているんだろう?と考えることがあります。

そして

「もっと違う仕事がしてみたい」

「もっと自分を分かってくれる上司に巡り会いたい」

「もっと給料を多くくれるところがいい」

・・・・・・・・。

と思ってしまいます。

私も少なからずそんなことを考えていたのです。

目からウロコでした。目

よかったらお付き合いください。


 
 


12月2日の日々の祈りより


 
人間には、できるできないはひとまずおいて、何事にも真剣に取り組んでゆくということが必要なので、いいかげんな態度で世の中を渡ってゆこうとするぐらい嫌なことはありません。

与えられた職業はそれがどんな職業でありましょうとも、その人が永遠の生命をしっかり自己のものとするための一つの経験として与えられているものでありまして、その人に必要でない経験は現われてこないのです。

ですから、自己がおかれている環境に不満をもって、与えられた仕事を怠るようであったら、そうした経験を魂の底にしみこませられるまで、同じような環境をぬけきることはできないのです。


どんなつまらなそうな仕事に対しても真剣に立ち向かわなくてはいけないということです。




 
 

 

感想

この日々の祈りは多分、12月2日にも繰り返し書き写すと思うのです。(笑)

それくらい響きました。

特に


その人に必要でない経験は現われてこないのです。


の部分ですよね。


これは仕事だけでなく、私たちの目の前に現われてくる、あらゆる現象に言えることなのです。

人間は進化向上するために生まれて来ている

今、地球上にいることもそのためなのです。

宇宙には無駄なものなど一切存在しないのです。

だから私たちがしている経験も一切の無駄もない。

成長する為に必要なものだから現われて経験しているのだ

だからいらないことは考えずに

与えられた仕事を一生懸命にしていればいい

そう思うとすごく気持ちが楽になってきたのです。わーい(嬉しい顔)

私たちは今のことを一生懸命にする前に

「これでいいのか?」

を思い、考えてしまいます。

順序が逆なんですね。

そして

「これでいいのか?」



私たちが考えることではなく

守護霊様、守護神様が考え

与えてくださることなのです。

お金も仕事を与えられるものだと思います。

給与って

与え給うって書くんですよね。



  

世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)



  

日々の祈り (人間の本質)

  
       
  
8月16日の日々の祈り


間は根本として、一なる神より分けられたる生命体であります。


動植物、鉱物等もすべて一なる神の生命の働きを根本にしているわけでありますが、人間は神の生命の働きを、自己自身が自由に使いわけ得る能力を与えられていて、自己の運命を自己自身が自由に創り得る存在者なのであり、本来神の被造物ではなくして、神自身の能力を内部に持った神の子なのであります。

ですから人間自身が欲するならば、神のみ心の内奥までも探り得るし、神と一なる心境にまで到達でき得る者なのですが、現在では、そうした心境まで到達した人々はごくわずかでありまして、大半は神と動物、自由者と被造者としてこの世に生きているのであります。




  

         日々の祈りより  五井昌久 白光出版




  
感想

私が一番嫌いなのがいいわけです。

たくさんのいいわけのなかでも

「人間だからしかたがない」

「人間なんてしょせんそんなものさ」

これを自分を慰めることにも使い、相手を慰めたり、元気づけることに使っているケースが結構多いのです。

しかたがないのなら、どんなことをしてもいいのか?

そこから(そこまで自分や他人を下げておいて)良い方向に向けて努力して行こうという気持ちになれるのか?

となれば、なんらプラスになる要素はないと思うのです。

慰めの言葉(自分にも他人にも)が見つからないのなら

何も言わない方がいいのです。

それはこの言葉ほど人間の神性を否定した言葉はないからです。

真理からほど遠く、切り離してしまう言葉はないからなのです。

特に、親や指導者の人は絶対に言ってはいけないことだと思うのです。

なぜならその後で

「人間には神性が宿っているんだよ」

「どんな不可能と思われるようなことも可能にするだけの力(潜在能力)が君には備わっているんだよ」

という言葉が使えなくなるからです。

人間の神性を否定するような言葉は真理とは真逆な言葉だからです。

ここの後半に書いてある

大半は神と動物、自由者と被造者としてこの世に生きているのであります。

は、ほとんどの人が人間を動物とほぼ同等に思っている、神さまが創ったものではあるけれども、草や木のように神性が宿っていないものと同じだと思っていることを言っています。

そうではないんだ

それだったら人間も地球が進化するはずもないし、宇宙の成長は止まったままです。

そんなはずはない!

と真剣に真理を追究して来る人が

宇宙の波動が判る人が

これから

どんどん出て来る

宇宙神(神々様)は、それを楽しみにしているのです。



  


2010年8月14日 (土)

日々の祈り (宗教の極意)

     
  
8月15日の日々の祈り


 

人間は現在現われているすべての状態を、実際に今起こっている状態と思いがちですが、今、現われている状態というのは、過去において、人間の心の波のなかにあった状態が、今消えてゆこうとして現われてきているので、そうした消えてゆく姿を把えて、どうのこうのといっていることは、ちょうど幻影をつかんで騒いでいるのと同じことなのです。


この真理を知ることが宗教の極意でもあるのです。


今、私たちが想念し、行為していることは、未来の世界にその結果が現われてくるのですから、過去の現われである現在の状態は、すべて消えてゆく姿と観じて、今、世界平和の祈り一念で生きてゆくことこそ、唯一無二の賢明なる生き方となるのです。





  
          日々の祈りより 五井昌久  白光出版





 


感想


今日は、8月14日なのですが、私はこれから奥さんの実家に里帰りするので、15日の分を今書いています。


先程書いた14日の日々の祈りとすごく共通している部分がありますよね。

ここで大切なことは、今起きていることは過去世がそのまま現われることもある、大難が小難になることもある。

どうなるか、肉体人間のわたしたちにはどうすること(コントロールする)も出来ない。

だからどんなことが起きようと

私たちは未来に善いタネを蒔いていくしかないんだ。

「その最上の方法が世界平和の祈りなんだ」

ということだと思うのです。

今、善いタネを蒔いて行けば

未来も変えられる

そして過去も変えることが出来るのです。

それは現在から未来のベクトルを変えれば 右斜め上

過去のベクトルも変わるからです。左斜め下

過去も未来も変えることが出来る

それが時空を超えるということなのです。

宇宙を生きるということなんです。

世界平和の祈りは宇宙の願い事なので

時空を超えているのです。 わーい(嬉しい顔)手(チョキ)






世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)





  

  

日々の祈り (煩悩即菩提)

  
  
8月14日の日々の祈りより


すべての業想念は、人間の神性が現われるための、不要なる波の消えてゆく姿であるとして、その消えてゆく姿を縁にして、いよいよますますふかぶかと、神のみ心のなかに入ってゆくのでなければ、自分を愛し、自分を赦すことはできません。

煩悩即菩提という仏教の言葉を、容易に何気なく実現させるのが祈りであるのです。

そしてその祈りを個人人類同時成道の祈りにまで、広めたのが世界平和の祈りなのです。

私たちが世界平和の祈りを根底にして生活してゆく時、力まず気張らず、自分を愛し自分を赦すことができてくるのです。

そして自分を愛し自分を赦す、ということが真実にできれば、それにつれてひとりでに、人を愛し人を赦すこともできてくるのであります。




    
          日々の祈りより  五井昌久  白光出版








 
感想


久々に日々の祈りを書き写してみました。

日々の祈りは365日分あるのですが、毎日読んでいてピンと来るものと来ないものがある。

そのときの心境によって以前読んだときには、何にも観じなかったのに今は響いてくるということがあります。

心境とは日々、瞬々刻々、変化しているものなんだなぁとわかります。

自分が響いたものでないと読んでくれている人たちも響かない、よって毎日書かなくてもいいと思ったのです。

そして書きたいと思うものだけを書く

というスタンスで日々の祈りも書いています。

さて、最近の私の日記には消えてゆく姿が頻繁に出てきます。

実は、この消えてゆく姿の説明がほんとに難しい!

これが本当にわかれば、生きて行くことが辛く無くなる

悟った状態・・・・。

つまり菩薩様の心境になるのです。

ここで私なりの消えてゆく姿を述べてみたいと思います。


今、私たちの目の前に起っていることは、今ではない

過去においての自分の思っていたこと、してきたことが時間差を経て

現われてきているのです。

ずっと前に蒔いた種が今実っている

悪いタネを蒔いたのなら悪い結果が現われ

善いタネを蒔いたのなら善い結果が現われる

これは宇宙の法則、天の法則、自然の法則です。

では、悪いタネがそのまま写ってきているかというと

そうではない

過去世で人殺しをしていたのなら、本当に殺されるか?

もしそのままであったなら、命がいくらあっても足りない。

それは、過去世(潜在意識の世界である幽界)を守護霊様、守護神様が必死になって消してくださっているからです。

でも完全に消えないものがある

それが大難が小難になっている。

殺されてもしかたがないことが殴られるくらいで済んでいるのです。

なぜそうなるか?

それは私たちには守護霊様と守護神様が、私たちが出来るだけ苦しまないように、幸せになるように守ってくださっているからです。

ですから、今現われていることは、過去世でのことであり、それも大難が小さな難で現われて、そして消えてゆこうとしているのです。

でも、私たちはその消えてゆこうとしている姿(現象)をつかんでいる。

「なんであいつに殴られなきゃいけないんだ、俺は何にも悪くないのに」

と腹を立てて、相手を殴り返したり、恨みに思ったりしているのです。


そして殴るとまた殴り返され、恨みに思うとその想念が残って未来に続いていく。


その繰り返しをしているのです。


守護霊、守護神様が

せっかく消して(小さくして)、清算しようとしてくださっているのに


消しゴムで消した後から


又、人間が書いてしまっている


それが地球人類が、次元の違う、進化した星に昇進?出来なかった理由なのです。

アセンションに6回失敗して来た原因なのです。げっそり

でも、それはしかたがなかった

真理を知らなかったからです。

真理(消えてゆく姿)が難しかったからです。

真理がわかる時期ではなかったからです。

でも、五井先生が消えてゆく姿を説いて

人間が自然に悟るメソッド(方法)を教えてくださった

それがここに書いてある煩悩即菩提なんですね。

煩悩、つまり人間が菩薩(神様、仏様)になる

ということです。

世界平和の祈りを祈っていると

自然とそうなっていくのです。

なぜなら、世界平和の祈りとは

神様の中にすっぽりと入ってしまう祈りだからです。




世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



   

2010年8月13日 (金)

本当の自由とは 3

  

  
一番上等なことは、世界平和の祈りのような人類愛の祈り



そこで、瞬々刻々、消えてゆく姿で世界平和の祈りをし、すべてを神様のみ心の中に入れる練習をしてゆきますと、潜在意識がだんだん、浄まって、神のみ心とひとつになってゆくわけです。

だから、潜在意識に溜まっている把われというものをなくさない限りはダメなわけです。

潜在意識の中に自我というものがあれば、それがいつかは現われてくるから、自我というものをなくすために、世界平和の祈りをするわけですね。


要するに、人間というものは、神様から来た生命が自由に働いていれば、病気にもならなければ、貧乏にもならないわけなんです。


しかし、人間というものは不思議なもので、そう簡単にはいかないものなんですよ。


過去世というものがありますから、過去世から持って回っている、業というものがありますからね。

そして、それが出てきますから、生まれながらにいいことばっかりで一生を終る人は、ほとんどありませんですね。


それは何故かというと、過去世の因縁というものがあるからです。


そこで、あらゆるものは過去世の因縁の消えてゆく姿と思って、いい想いを出して、今はもう未来の世界を創っているんだと思う。


これから先に現われるのは、今思ったことが現われるのだから、今一生懸命いいことを思えばいい。


その中で一番上等なことは何かというと、世界人類が平和になるように祈る、要するに人類愛の祈りです。


神様と一つになった、心の祈り。


それが一番いいわけです。


そういう祈りをしていれば、あらゆるものが自ずとよくなってゆきます。



              おしまい





       
            五井先生の講話より



 
 



感想


巷(ちまた)では、プラスの言葉をずっと唱えたら、いい事が起る、奇跡を起こせるとか言っています。


プラスの言葉を言う、それは素晴らしいことだと思うのです。


でも何故か下火になって消えていきます。


それは真理がちゃんとわかっていないからだと思うのです。


今、自分の目の前に現われていることは、過去世の自分、あるいは人類の想念行為(思っていたこと、念じていたこと、行っていたこと)が時間を経て再現されているのです。


過去世において、良いことばかりを想っていた、良い行動ばかりをしていた人はそうはいません(笑)。

人間として生まれて来るということは、肉体を持って過去世の清算をしなければならないからです。

潜在意識を浄化しなければならないからです。


だから業(ごう)が溜まっているのです。


業とは、わかりやすく言えば、神さまから離れたマイナスの想いや行為が集まったものです。

そういうエネルギーを私たち人間は持っているのです。

ですからそのマイナスのエネルギーが溜まったもの(業)を浄めない限りは、そのマイナスの現象が現われてくるのです。

そのマイナスのエネルギーをプラスの言霊(ことだま)で消そうとしているのです。

でも、何回も、何十回も、何百、何千回も輪廻転生して来て、溜まりに溜まったものをちょっとやそっとのプラスの言葉で消すことなんて至難の業なのです。

そしてプラスの言葉を唱えていると同時に、マイナスを掴んでしまったりしていれば、業はほとんど減ることもない。

過去世からの業が少ない人は、プラスに転じることがあるかもしれません。

でもそんな人はほとんどいないのです。

過去世からの業を消すには、肉体人間の力だけでは無理なのです。


潜在意識は幽体に溜まっています。


だから幽界を浄化しないと肉体界は善くはならないのです。


下の図のように潜在意識に溜まった幽界が汚れているから、それが肉体界に現われてきているのです。





神界(守護神)

霊界(守護霊)

幽界(潜在意識の世界)

肉体界(顕われの世界)




幽界を浄めるのは霊界と神界にいらっしゃる守護霊と守護神にしか出来ないのです。

それと肉体界に居る私たちがまず、業を溜めていかないことと、プラスの言霊をずっと唱え続けること、守護霊、守護霊に幽界を浄めていただくことの共同作業で地球上の業、私たち個人の業を消すことが出来るのです。


だから世界平和の祈りには守護霊、守護神への感謝が入っています。


感謝は光なので、守護霊、守護神が守ってくださる(過去世を浄化してくださる)力が増していくのです。


そして、肉体人間に出来ることは、宇宙と共鳴する祈り言葉を唱えることです。

宇宙はプラスのエネルギーで溢れています。

マイナスのエネルギーは存在しないのです。

今、地球は未熟な幼い星なので、マイナスのエネルギーで覆われている。

マイナスのエネルギーは人間の想念行為で作ったものなので、有限です。

しかし宇宙のエネルギーは無限なのです。ぴかぴか(新しい)


その宇宙の無限のプラスのエネルギーがいっぱいいっぱい、詰まったものが世界平和の祈りなのです。


だから祈り言葉とは、宇宙のエネルギーと共鳴するものでなければ、業を消すことは難しいのです。

お経などは、業を消すためのものです、死者を清めて、幽界から霊界に送るためのものですが、このエネルギーが強いものでなければ、浄めるのは難しいのです。

凄まじい業を浄めて、マイナスを消すにはどうしたらいいか?

それを五井先生は、神我一体となって、宇宙神からその方法を受取ったのです。

それが世界平和の祈りだった。


ここに世界平和の祈りについての解説があります。


「この祈りは五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。」


もっとわかりやすく言えば、宇宙にいる神様(宇宙神)、天使たちがバックに居て応援してくれる祈りなのです、こんな心強い祈りはないのです。



だから世界平和の祈りなしでは地球も人類も人間も救われることはないのです。


どうせ祈るのなら、自分のためだけでなく、人間も人類(地球の人間だけでなく宇宙の人類のこと)も地球も浄化出来る、つまり救われる祈りがいいに決まっていますよね。


ですから私が一生懸命に、みなさんに世界平和の祈りをお薦めしているのです。 わーい(嬉しい顔)


アセンション(次元上昇)は世界平和の祈りで完成するのです。





世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




  

  
  

2010年8月12日 (木)

本当の自由とは 2

  
   
  
もっと言い換えますならば、人間は肉体を持っているので、その五尺何寸という肉体の枠の中に把われてしまうと、たとえどんなに富があって、どんなに自由があるように見えても、それは本当の自由ではない。


ところが、人間は肉体ではなく生命そのものなんだ、神の分け生命なんだということが判りますと、たとえ肉体がどういう状態になったとしても、それに把われることがなくなります。


それが生命の自由を得るということになるわけなんです。 (前文より)





把われたら把われたでいいから、消えてゆく姿と思うことが大事




ところがそれは理屈であって、実際問題として病気になったら病気に把われるし、貧乏になったらどうしたら貧乏が直るのかを考えます。
 

または、社会のことや世界の情勢を考えて、そこに把われたりもするわけですよね。
 

そこで私がいつも、そういう把われはすべて消えてゆく姿なんだ、病気も消えてゆく姿、貧乏も消えてゆく姿、不完全なこの世の現象は、みんな消えてゆく姿で、それはどんどん、どんどん、消えてゆくんだ。
 

だから、把われる想いがあったら、把われたでいいから、それは消えてゆく姿と思いなさい、と言うでしょう。

 
把われたら把われたらでいいから、と言われると安心して、消えてゆく姿、と思えるわけですよ。
 

そうすると、だんだん把われなくなってくるわけ。


人間というのは面白いもので、思うまいとすると、かえって思うようなことがある。
 

空になれ、空になれ、と言われると、空という言葉に把われてしまって、なかなか空になれない。

 
統一しろと言われると、統一に把われてしまう。
 

だから、それらに把われる想いがすべてなくなった時に初めて、本当の自由が得られるわけですね。
 

ですから、本当の自由を得るためには、簡単に言えば、神の生命の中で自分は生かされていて、何事も肉体の自分がやるんじゃなくて、神様がやってくださるんだ、という想いになりきることです。





自分が自分を自由にする



そして、いわゆる喜怒哀楽の想い、喜びはまだいいとして、悲しみの想い、妬みの想い、怒りの想い、そういうものは、出すまいと思うより、消えてゆく姿だと思うと、今度は出なくなるわけね。
 

そういう想いは、いいことではないに決まっています。
 

誰だって怒っていいことはないし、恨んでいいことはないんです。
 

それは、当り前の人間なら誰でも判りますね。
 

 でも、いけないということは判るんだけれども、どうしても出てきてしまうわけです。

 
そこで、出てきた時に消えてゆく姿と思うと、現実に現われないで、目に見えないうちに消えてしまうわけです。
 

そして、平和の祈りの中に入ってしまう。
 

そうすると、次第、次第に、生命の自由を得ることが出来るわけですよね。

 
だから、本当の自由というのは、形の世界ではないんだ、形の世界でいくら富を得たって、いくら健康になったって、それは本当の自由ではない。

どんなに政治、政策が変わり、世の中が変わっても、本当の自由になるわけじゃない。


自分が自分を自由にするのであって、他人が自由にしてくれるわけでもなければ、物質が自由にしてくれるわけでもなければ、地位や権力が自由にしてくれるわけでもないんだ、ということなんですね。



              つづく


 


             五井先生の講話より










感想


把われるというのは、別の漢字では、捉われる、囚われる、捕われる、と書きますが、心が縛られた状態を言います。げっそり
 


心とは光の波動体(エネルギー)で出来ていて、いつも川の流れのようにサラサラと流れているのが、スッキリ爽やかな状態なのです。



何も想わない、心に何もひっかかるところがない


幼子のように無邪気で余計なことに思い煩うことのない


無邪気に遊んでいる子どもの姿を見ると

「子どもって何にも考えていない、心配することもない、いいなぁ」

「あの頃に戻りたいなぁ」

と思いますよね。わーい(嬉しい顔)

その子どもの心の状態がとらわれのない、状態なのです。

エネルギーがサラサラと流れている

人間とは本来、この状態が正常なのです。

心が健康体なのです。

しかし、私たち大人(人間)は色んなことを思い煩い
 

心のエネルギー体に大きな石(意思)を置いてしまう
 

川の流れに想い(重い)という障害物を置いてしまうのです。
 

すると気(エネルギー)が滞ってくる。

気(エネルギー)が病んでくるのです。

それが病気なんですね。げっそり

この病気の状態をどうしたらいいか?

それは、自分という小さな川を

宇宙という無限の、とてつもなく大きい川(流れ)の中に

入れてしまえばいいのです。

それが世界平和の祈りなのです。

世界平和の祈りは

宇宙神の願い言葉なので

とてつもなく大きいのです。

どんなマイナスのエネルギーも

光に変えてくれるのです。ぴかぴか(新しい)

過去世の因縁も消してくださるのです。


そして、宇宙天使たちの救世の大光明が輝いて

私たちを救ってくださるのです。


本当の自由とは


心が宇宙大に拡がった状態をいうのです。ぴかぴか(新しい)わーい(嬉しい顔) ∞






世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




  

2010年8月11日 (水)

周りの評価を気にしないでほしい

 
   
 
わたしたちは、他人の言っていることを気にします。

そしてその言っていることが本当だと思っている。

「お前はバカか?」 (無限なる愛)

と言われれば

「俺はバカだ」

と信じ

「お前はなんて役立たずなんだ」 (無限なる赦し)

と言われれば

「俺は価値のない人間なんだ」

と落ち込んでしまう


言葉はエネルギーであり

その言葉の威力に負けてしまうのです。
  

でも、その人の言っていることには何の意味もない

デタラメを言っているだけなのです。

間違ったことを言っているのです。

デタラメで間違っていることを信じて


自分をマイナスの方向に向かわせてしまう

マイナスの言葉にエネルギーを与えてしまっている


なんて無駄なことをしてしまっているのでしょう。げっそり


人間とは、前の日記にも書いた通り

完璧な神さまと不完全な動物の間にいるのです。

だから不完全な部分がたくさんあるのです。

これからアセンション(次元上昇)に向けて

不完全な部分が消えて行って

人間はパーフェクト(完全)な神の姿を顕していくのですが

今の段階では

残念ながらまだ不完全なんです。

だからその不完全な他人(人間)の言っていることを

さも、神さまが言っていることのように信じて

「自分はダメな奴なんだ」

なんて思ってはいけないのです。

毒りんごを食べてしまってはいけないのです。りんご げっそり

ユーチューブを観ていたら元ジャイアンツの桑田さんが

“周りの評価を気にしないでほしい”

と訴えていました。

桑田さんも他人に様々な評価を受けてきた人です。

プライドも傷つけられ

誹謗中傷の嵐を受け

ズタズタになったときに

本当に信じられるのは

「自分しかいない」

「自分が自分を信じなければダメなんだ」

と気づいたと思うのです。

自分を信じるとは

自分の中に

完全(神)をみるということです。

人間はどん底を味わうと

真理に通じるといいます。

3次元を超えて4次元に行くのだと思うのです。

どん底が3次元の終わりだったのかもしれません。

そう思うと、どん底も真理に出逢うための

経験なのかもしれません。

そんなことをふと思った

桑田さんのインタビュー ? でした。わーい(嬉しい顔)

      



http://www.youtube.com/watch?v=vgSYH-h1LJs




      
 

2010年8月10日 (火)

本当の自由とは

  
  
  
私たちはお金がたくさんあったのなら自由になると思っています。

でも、お金をたくさん持っている人はもっとたくさんお金を欲しいと思っているかもしれない、するとその人はお金持ちでもなければ自由でもないわけです。

反対にお金をあまり持っていなくてもお金に執着していなければその人貧乏でもないし、心は自由なわけです。

つまり自由とは、なにものにも縛られない心の状態をいうのだと思うのです。




空の鳥を見るがよい。
まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。





という聖書の言葉がありますが、その通りだと思うのです。


今回は五井先生の述べられる“本当の自由とは” について書いていきます。




 





  本当の自由とは


把われる想いがあるうちは本当の自由とは言えない


いろんな自由という言葉がありますが、本当の自由とはどういうことか、ということについて話しましょうね。


人間というものは、赤ちゃんを見ても分かりますけど、赤ちゃんは押さえつけられたりすると、泣いたり、暴れたりしますね。


これは赤ちゃんじゃなくても、誰も彼もが、生命の自由、自由に生きたい、ということを欲しているわけです。

また貧乏になったり、病気になったりしますと、自由がなくなりますね。

貧乏すればお金がないから、好きな物も買えないし、病気になると、おもい通りに動けません。

だから、貧乏や病気にはなりたくないと思う。

そういうのも、自由を欲する形に他なりません。

だけれども、本当の自由というものは、そういうひとつひとつの現われにあるのではなくて、心がどんな状態にあっても、どんな貧乏な中にあっても、どんな病気の中にあっても、心が自由に生き生きとしていられるということです。

お金持ちの王様が、いくら好き放題なことが出来たとしても、本当の自由とは言えません。

お金ならお金そのものに把われたり、いろんなものに把われるかもしれない。

把われる想いがあるうちは、本当の自由ではない、ということなんです。





生命そのままの姿を現わすためには



しかし、肉体が人間そのものだと思っているような人は、どうしても病気なら病気に把われてしまいます。

貧乏なら貧乏に把われてしまいます。


ところが、生命そのものが人間だということが判っていますと、たとえ病気をしていても、貧乏していても、それは過去世の因縁が消えてゆく姿だ、と思えて把われなくなります。

もしも、把われたとしても、ああ、これは消えてゆく姿だな、とその把われの想いを消すことが出来る。

そうすることによって、肉体よりも、もっともっと奥の、生命のそのままの姿が現われてくるんです。

もっと言い換えますならば、人間は肉体を持っているので、その五尺何寸という肉体の枠の中に把われてしまうと、たとえどんなに富があって、どんなに自由があるように見えても、それは本当の自由ではない。


ところが、人間は肉体ではなく生命そのものなんだ、神の分け生命なんだということが判りますと、たとえ肉体がどういう状態になったとしても、それに把われることがなくなります。


それが生命の自由を得るということになるわけなんです。



               つづく






        五井先生の講話より







感想


目に見えている肉体だけが、人間ではない、自分ではない

というところがなかなかわかりにくいですよね。

わかりやすくいいますと

肉体がなくなると心だけが残るのです。

身体は無くなっても意識は残っているのです。

つまり心という目にみえないエネルギー体になるのです。

下の図のように人間は肉体が無くなっても

幽体、霊体、神体があるのです。

そして私たちにインスピレーション(直観)で知らせてくれる神体は神界にあります。

そこに本当の自分の心、つまり本心があるのです。





 神体(神界、本心のあるところ)
 ↑
 霊体(霊界)
 ↑
 幽体(幽界)
 ↑
 肉体(肉体界)



そして私たちは、自分たちのことを人間、または人といいますが、人間と人とは違うのです。


人間は、霊界の下の方、幽界、肉体界の感情を持った不完全な動物的な感情霊をいいます。

神と動物の間という意味なのです。

一方、人とは霊が止まる、霊が宿っているという意味です。

この場合の霊とは神霊のことなのです。

つまり神の霊が宿った人、それが本当の人(霊止)なのです。


五井先生の



人間は肉体ではなく生命そのものなんだ


とは人間は感情を持った不完全なものではなく神様が宿った完全な存在なんだという意味なのです。

または、生命=霊、エネルギー体であると思ってもいいですね。


いづれにせよ、肉体とは人間の姿を現わしているほんの先端の部分であり、本体ではないのです。

にもかかわらず、先端で現われていることに、私たちは一喜一憂し、振り回されているわけです。

海でいえば、波が肉体人間です。

海が本体なのに私たちは波(肉体)ばかりを見ている。

肉体(波)に把われるな! 

とは、そういう意味なのです。

  
そして波(貧乏や病気)はいつかは鎮まる(消えてゆく)のだから

貧乏や病気に気持ちを把われるな!

振り回されるな!

ということなのです。






  
世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)



  
         

2010年8月 8日 (日)

続・如是我聞

  
  
  
1.息を吸うのも神さまがさせてくださっている。足を動かすのも神さまが動かして下さっている。神さまが、この世にもう用がない、と思われれば、今日は健康であっても明日天に召されることがある。

自分が生きているのではない。神さまに生かされているのだ。




 
1.祈りのない人生は無に等しい。


 

1.一番の罪悪は人のこころを乱すことである。


 


1.肉体人間は救われないものだ、と徹底して思えた時、人間ははじめて救われる。


  

1.いいことをするのでも、自分のソロバン勘定をはじいてするのでは、自分の徳にはならない。自分の損得を考えないでしてこそ、自分の徳分となるのである。


 

1.祈りをますます深めてほしい。もう祈りよりない、ということをつくづく感じる。肉体は神の器であるという自覚、神との一体感を深めることが必要である。


 


1.病気と寿命は違う。人間は病気で死ぬのではなく、寿命で死ぬのである。



 
1.私にとって、現在のすべてのことは遠い遠い昔にすんでしまったことのように思える。



 


                  五井昌久




 

分かる人には分かる

 
  
私がここで日記を書いているのは、分かる人に分かってもらえたらいい、その人に出逢うために書いているのだと思うのです。

私の書いていることはたぶん、たくさんの人に分かってもらえるものではない、少なくとも今の段階(時期)では、極、少数の人が

「なるほど!」 と頷かれているのだと思うのです。

もっとたくさんの人にわかってもらいたい、理解してもらいたいと思っていた時は、正直しんどかったです(笑)

でも自分のやっていることは、真理を真剣に学ぼうとしている人、本当に自分が救われたいと思っている人、そして自分が救われたのなら、今度は人も救っていきたいという気持ちで溢れている人とつながるためなのです。

だったら人数の多さではないんだ。

一人であったとしてもその人と出逢うことが尊いことなんだ

出逢わなくてもいい

その人(求めている人)が真理に目覚めて、五井先生、于先生とつながればいいんだ

と何度も何度も思い返すのです。

そんなとき

白光誌に西園寺由佳さんの文章を見つけました。

一部を抜粋しますのでよかったらお付き合いください。

日本の伝統の素晴らしさが書かれています。



 



究めた者同士がわかること


先日、私が知り合いから聞いたお話をご紹介させていただきます。

それは古くから日本に伝わる “包丁道” についてでした。

私は恥ずかしながら、“包丁道”をその時に初めて知ったのですが、鎌倉時代には存在していたことが絵画等でも確認されているそうです。

そして宮中でお正月をお祝いする儀式として執り行われていたそうです。

食事とは、直接的、または間接的に生命を頂いていることでありますが、包丁道はその生命に対する感謝を神様へ捧げる儀式ということで行われていたと伺いました。

そして今でもお家元が、その儀式を執り行われているそうです。

ある時、養殖の魚を五十匹ほど儀式に使うことになったそうなのですが、慎重に輸送されたにもかかわらず、お家元はその五十匹に目を通して、本当に使えるのはこの三匹だけだとすべての魚の中から三匹だけを指差したそうです。

周りにいる人々はその三匹と他の魚の違いが全くわかりませんでした。

すべて慎重に、一切の傷なく運ばれてきた五十匹の魚は他のひとたちには全く同じに見えたそうです。

が、お家元曰く、その三匹の魚は安らかに、まるで自分が死んだことも気づかずに死んでいたそうです。

そしてお家元は、他の魚たちは締める時に苦しんで死んでいるのが分からないか?

と周りの人たちに聞かれたそうです。

 ある人が、その魚を養殖した漁師の方に、その話をしたのです。

すると漁師の方は途端に 

「ほれ見んかい!」とお弟子さんたちを一喝されました。

「お前らは締めればいいと思っとるがそうじゃないんや。分かったか?」と。

実は五十匹の中でその漁師の方が絞めた魚は三匹のみで、後はすべてお弟子さんが絞めたそうです。

まさしく究めた者同士が分かり合う、深い伝統の真理です。

日本には古来から食一つに対し、また食物(生命)に対し、それだけの配慮と、奥深さが存在していたのです。

でも、これは知る人ぞ知る。

分かる人だけが分かること。

分からない人には分からない、その道を究めた人同士のみが分かり合えることだと知りました。





    
           西園寺由佳 白光誌 8月号より


   



 

感想


究めるって難しいことではないと思います。

毎日を一生懸命に真剣に生きることが究めることだと思うのです。



 


  
 
   

2010年8月 6日 (金)

神のみ心の中に入る 4

  
  
   
想いが大事です


声に出る言葉というのは大事なのです。

だけど声に出る言葉が重要ポイントではないのです。

声に出る言葉が、この運命を支配するわけでもなければ、一番重大なものでもない。

一番重大なものは何かというと、この中にある想いなのですよ。

中の想いが光に満ちているか、柔和そのものであるか、調和しているか、それが一番大事なのです。

言葉でもってチャラチャラお世辞いったって「お子さん、きれいでございますね」といったって、うちの娘のほうがきれいなんだ、あんなの汚いや、なんて思いながら、言葉だけ丁寧にいったって、そんなのはダメなのですよ、それでは和まない。

何故、和まないかというと、心の中では反対なのだから。

あのヤロウあのヤロウと思いながら、言葉だけとりつくろっていっているのは、偽善というのです。

「神さまは有難いんでございます」 といいながら、実はちっとも心の中で有難くないんだよね。

心の中では、神さまって本当に有難いのかしら、と思っている。

思っているけれども、宗教家に、神さまは有難い、と思え、といわれているから、仕方がないので、神さまは有難いんだといっている、それはやっぱり偽善なのです。


 私の教えているのはそういうんじゃない。

声に出る言葉で、神さま有難うございます、といえ、と教えているわけじゃない。

声に出る言葉で世界平和の祈りを教えているわけじゃない。


声に出るより前に、想いを光にするんです。


想いを光にするにはどうしたらいいかというと、光を邪魔している業想念、つまり怒りとか妬みとか、不安とか恐怖とか、恨みとか、そういう想いを世界平和の祈りの中へ持っていっちゃうのです。

いつもいつも持っていっていれば、知らない間に業想念が消えていってしまって、世界平和の祈りがもっている大光明がこの中に入ってきて、一体になるのです。

神我一体になるんです。

自然に神さまと自分が一体になる。


そうすると想いがいつもいつも輝いているわけです。




                おしまい




  
    

     ━ 『不動の心』より 五井昌久 白光出版







感想


「どうしてこんなことを想ってしまうのだろう?」

「自分のどこにこんなに嫌な気持ちがあるのだろう?」

誰しもが想うことだとおもうのです。

でもそんなことをクヨクヨ考えてみてもしかたがないことなのです。

だって想うとは相手の心が移って来ているのだから

自分の本心とは違うのです。

本心から想っていることではないのです。

それと前世で想っていたことが溜まっていて

それがトコロ天のように想いが溢れ出ているかのどちらかです。

昔前世で想っていたことが録音されていて、今、テープレコーダーのように再生されて想いが出て来ているのだから気にしなくていいのです。(前世で業想念に巻き込まれていた自分を責めてもしかたがないのです)


どれだけ汚い想いが浮かんで来ても

それを本当の自分だと思ってはダメなのです。

でも、そんなこと言ったって次から次へと浮かんでくる

つい口に出してその汚い言葉を言ってしまう

ということがあります。

そうならないために想いをいつもいつもきれいに浄化させておくことが大切なのです。

そのために祈りがあるのです。


ここに書いてある


想いを光にするにはどうしたらいいかというと、光を邪魔している業想念、つまり怒りとか妬みとか、不安とか恐怖とか、恨みとか、そういう想いを世界平和の祈りの中へ持っていっちゃうのです。

いつもいつも持っていっていれば、知らない間に業想念が消えていってしまって、世界平和の祈りがもっている大光明がこの中に入ってきて、一体になるのです。


がとても大切なところなんです。




私たちは神の子です。

そして光の子なんです。ぴかぴか(新しい)

だから祈りによって

本来の神の子、光の子に戻ればいいのです。 
わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)






世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



 

2010年8月 5日 (木)

日々の祈り (愛することを止めるな)

   

  
8月5日、日々の祈りより

 

妻や夫や子どもたちが、いつでも素直に自分の愛を受け入れてくれるものではありません、愛されていると知りながら、かえってその愛を裏切るような行為をしてしまうことがよくあるものです。

愛されれば愛されるほど、どこまで愛してくれるか試してみたいなどと思う、恋人や子どもがよくあるものです。

愛しても愛しても、自分の心を素直に受けいれてくれない時などは、全く愛することの悲哀を感じるのは誰しものことです。

しかしそれだからといって、愛することを止めてしまったり、相手を憎んでしまったりしたら、せっかくの神のみ心が現わせぬことになってしまいます。

愛することが哀しい時があっても、やはり愛しつづけることが大事なのです。

愛することそのことが神の光なのです。


 
 




感想


私は人間関係に疲れたとき、家族の愛がわからなくなったとき、愛することを止めたくなったとき


五井先生のご著書で 「愛すること」 を本棚から引っぱり出してそのタイトルに書いてあることを読むことがあります。





愛して心哀しい時があっても

愛しつづけなければいけない

その愛はやがて

輝かな喜びとなってあなたに

かえってくるに違いない






愛とは与えるものであって

求めるものではない

わかっていても時々

嫌になるときってあるんですよね



そしてまた気を取り直して

愛することを続けるのです。

「それでいいのだ」

と思います。




 
世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)





  

神のみ心の中に入る 3

  

言葉でする心の交流


これはとても大事なことなのです。それで私の日常生活はどうかというと、私は何も思っていないのです。

毎日、何も思ってないのです。朝来ると「お早うございます」とやっています。

お昼になれば 「やあこんにちわ」 とジィーと顔を見ています。

私が顔を見ているから、向うじゃ

「何、先生見ているんだ、私のどこかに何かついているかしら」なんて思っているかもしれない。

何にも見ちゃいないんです。

何も見ていないで、何をしているかというと、黙って浄めているんです。

私が顔を見ているから「私、きょう顔がきれいだから、先生見とれてるわ」 なんて(笑)そうじゃない。

顔を見て見とれているわけじゃない。

「きれいだね」 なんて誰かにいうけれども、ごめんなさい。

しかしきれいとか、きたないとか、あまり問題になっていない。

何を見ているか、この目で見ているわけじゃなくて、奥の目で、ジーッと向こうを浄めているだけです。

ただ黙って見てたんじゃ向うが煙たかろう、と思って、冗談をいったり話をしたりする。

この声の言葉で冗談をいったりなんかしていますが、それはそれでいいのですよ。

ただおとりなのです。

ハッキリいうとね。「先生あんなことをいって、じゃもう先生と話すのよそう。つまんないわ、先生本気じゃない」

ところが大体、人間なんていうのは、本気で話していないんですよ。

どうでもこうでもいいことなのですよ、「雨ですわね」見りゃわかる。

「風が吹いていますね」 さわりゃわかる。

だけどもさ、そういわなければ、なんだか変でしょう。

わかりきっているのですよ。

そこが肉体生活、なかなか面白いところですね。

落語にもありますね、「いいお天気ですね」 「見りゃわかるじゃないか」 「雨ですね」 「いわなくたって降っているのはわかるじゃないか」

これでは喧嘩になるでしょう。だから「いいお天気ですね、雨ですね」というのに本気でいっちゃいないんだ皆は。

ただ言葉として何気なくいうんです。

その何気なくいうところに、言葉ではなくて、奥のものが、お互いになごもうとする。調和しようとする、お互いが調和してくるんです。

「いい天気ですね」 「そうですね」 といった時に、言葉が楽しいんじゃない。

「雨ですね」「いやな雨ですね」なまじっか宗教をやった人は、雨も尊いんだ、なんていっちゃってね。

「そうですね」といえばいいものを、なんか偉ぶっちゃって「雨もありがたいんじゃ」これじゃ喧嘩になっちゃうでしょう。

言葉はいかにも悟ったような言葉だけれども、それは言葉だけであって、本当の人間の心の交流ということを知らないのですよ。

「いやな雨ですね」といわれたら 「そうですね」といったらいいじゃないか。

そういえば、相手と同化するんで、心が結ばれるでしょう。

その人は自分の心が通じたわけだ。

「いやな雨です」といって、雨のことを気にしているわけじゃなんだ実は。

「いいお天気ですね」 といったって、別にいいお天気にこだわっているわけじゃないんです。

ただ人間の心を交流させる一つの手段として、いうんですね。

みんなそうなのですよ。

そうして心が結ばれてゆくんです。

この世の中で、必要な言葉だけを選んでやってごらんなさい。

一日、口をきくことがいくらもないから、「めしだ」といわなくたって、めしは出てくるでしょう。

「ただいま」といわなくたって帰ってくるでしょう。

いうことありゃしないですよ。

サイレントになっちゃうよ。

しゃれたことをいってみたり、冗談をいってみたり、なんとなく言葉をいうことによって、それで和むでしょう。

それと同じなのです。

私も、きれいになったとか、背がのびたとか、髪の形がいいとか、爪がのびているとか、いろんなことをいうけれども、本当のところ、そんなことはどうでもいいんだけれども、いうことによって、その言葉をあやにして、言葉を縁にして、心がスーッとつながってゆくんですね。

顔を見なくたっていいんですよ。

「こんにちわ」 といって来たら、ジーッとしていればいいようなものだけれども、それでは向うが変になるでしょう。

だから顔を、いかにも親しそうに見て、それで 「きれいになったね、今日は特にきれいだね」 なんていうんですよ。

すると途端にいい気持ちになります。

そうすると先生が好きになりますね。

好きになれば、心が交流してくるでしょう。

光の波が余計入ってくるんですよ。

いわないほうがいいかというと、いったほうがいいのです。

お世辞じゃないかもしれない、本当の時もあるんだからね。

いわれたほうが気持ちがいいでしょう。

只いい方をうまくいうんですよ。


   

               つづく



       
          
「不動の心」 五井昌久 白光出版




 



感想


「言葉ってそういう意味で使うのかぁ」

と初めて、知ってわかったような気がします。


その言葉の内容がどうだということではなくて

言葉以前の調和しようとする、仲良くしようとする、わかり合おうとする気持ちが大切なのですね。

その気持ちが言葉になって出てくる

わたしたちはどうしてもその言葉の意味を考えてしまいます。

表面的な上っ面の言葉の枝葉の部分をとらえて

「あんなことを言われた」

「その言葉はどういう意味なんだ」

とこだわります。

そして誤解を生むことがある。

政治家の人でも言葉を間違えてとんでもない事態になったりします。

言葉はもの凄いエネルギーをもっている。

そして心の内に溜まったものが外に出て来ます。

だから心の中をいつもスッキリ爽やかにきれいにしていないと、中のものがそのまま出て来てしまうのです。

心の中を整えていれば声に出てくる言葉はどんな内容(お天気の話題でも)の言葉であったとしてもそれは相手と円満に交流する、調和する、同化する、潤滑油となるんですね。


これからは心の中を整えて(波動調整をして)

いい方をうまく工夫して(笑)

相手の人の心と交流するために言葉を使っていこうと思います。






世界人類が平和でありますように


無限なる愛

無限なる調和

無限なる平和


  


 

2010年8月 4日 (水)

日々の祈り (愛は恨みに変化しない)

 
  
8月4日、日々の祈り


 
神のみ心の最大なるものは、万物に光を与える、すべてを生かしきるということなのです。

そこで神を愛する人間は、万物に光を与えるような想いを抱き、行為をしなければならない、ということになるのであります。

真の愛はただ光明一元の心なのです。

愛のうらが憎しみだなどとは、全く愛の本質を知らぬ虚言であります。


いかほど愛して裏切られたとしても、裏切られたことは、自己の過去からの業想念の消えてゆく姿として起ったことであって、相手を恨む何ものもないのであります。

愛が恨みに変化したとしたら、その愛は、愛と呼ぶべき性質のものではなく、自我欲望の想念行為であったというべきです。




 

    
          「日々の祈り」 五井昌久 白光出版


 





感想


私が肉体人間はどうしようもないおバカちゃんだと痛切に思うのは、人間が愛を履き違えをしている。

愛というものを正しく理解していない

というところなのです。

肉体人間は計算をしてしまいます。

損得で物事を考え行動しているのです。

そして感情で動いている(損得勘定)

「神との対話」という本の中では男女間の愛とは

商取引である。

と守護霊様がおっしゃっているくらいなのです。

でも、そんな取引きを人間は愛と呼んでいる・・・・・。

そこにはここで書いてある恨みも伴うのです。




・・・・・・・・・と偉そうに書いている自分も

取引きの愛に苦しんだうちの一人なのです。げっそり

だから

「本当の愛ってなんだろう?」

「神様ってなんなんだろう?」

と強く探求してきたのかもしれません。(笑)


人間は愛を学ぶ(神を識る、自分を識る)ために生まれてきた

そしてもっともっと深い愛を学ぶために生きて行く


そうなんだと思います。


 





参考図書 本


『神との対話』ニール・ドナルド・ウォルシュ サンマーク出版

特に男女の愛について悩んでいる人にお薦めです。(笑)



 


 
 

神のみ心の中に入る 2

  

  
いい人だけでは足りない

 


○○党などにもとてもいい人がいる。いいことをしています、人も救っています。

だから、神さま、神さまといっている人よりも、いい人間がいっぱいいるということが随分あるわけです。

ところがそれだけでは、本当の善さにならない。

何故善さにならないかというと、神さまを知らないで、ただいい行いだけの在り方だけだとすれば、いいことをしたつもりで、悪いことをしているかもしれないのだ。


いいですか。

いいことをしたつもりで、人を救ったところが、人にお金をやったところが、かえってその人が悪いことをしちゃう、お金をもらったけれど、安易になって、それで悪いことをして、地獄におちてゆくかもしれない。

いい行いはしているように見えるけれども、実は自己満足なのです。


自己の心が満足するために、人に物をやったりする。


それで自分はいいことをしたと思う。

片方の人にいいことをしたことが、片方に悪いかもしれない。

○○党のやり方なんかそうですね。

この人たちのためによくする、といって、片方を敵とするでしょう。

そうすると相対的な敵をつくるわけですね。

調和じゃなくて、敵をつくっているわけ。

だからいいことではない。

片半端になっちゃう。

だから、いい行いとしているから、いいというだけじゃないのです。

まだ足りないのですよ。

ここはとても大事なことで、これは質問が出てくるところです。

前生の因縁的にいいことをするんじゃダメなのです。

前生の因縁とか、三界の肉体界の業想念を捨てて、その上で、いいことをしなければダメなのです。

それにはどうしたらいいかというと、一遍、肉体人間じゃだめなのだ、神さま ━ といって、世界平和の祈りにのって、神さまの中に入りこんでしまって、神さまのほうから、自ずから、自然法爾、ひとりでに、いいことが出来るような、力まないでいいことが出来るような、力まないで行動が出来るような、そういう人間にならなければ、それは悟った人間とはいえない、悟りの道じゃないんですよ。




                   つづく



       
            「不動の心」 より  五井昌久



              







感想


いい人といっても前生で悪いことをしたことへのつぐない、埋め合わせとしてそうなっている場合がある。

そして自分ではいい事をしているつもりでも本当に相手の人のためになっていない、自己満足に過ぎない。

本当にその人のことを想ってするのならば、それをすることによって相手の人の魂が成長するのかをずっとずっとみて行かなければならないのです。

自分では助けたつもりでもかえって相手を甘えさすこともあります。

自分の子どもを甘えさせたために子どもを自立させることが出来ず、親も(自分)子どもも不幸になっているケースは枚挙にいとまがありません。

そして相手を守ると同時に敵をつくってしまうこともあるのです。

何が善で何が悪かがわかっていないのに

自分の愛する人の敵というだけで簡単にその敵を攻撃してしまう。

人と人との争い、国と国との争いもそういう根拠のない感情が発端となって始まっているのです。

肉体人間とは感情で生きる動物なのです。

どうしようもない凡夫です。

だから

「肉体人間のままだと救われようがないんだ」

とはっきりわからないと次へ進むことは出来ないのです。

法然さんや悟った人たちは業にまみれたどうしようのない人間と、本心とつながった光輝いている本来の人間の区別がはっきりとわかったのです。

だから神さま、仏さまに自分の想念のすべてを預けようと思った。

光輝いているところにだけ意識を向けようとした。

そうなってはじめて自然の行為ができるのです。

自然の行為とは自分が本心とつながってその本心が肉体の器にそのまま降りて来て頭で考えなくても勝手に体や心が動く状態をいうのです。


お釈迦様はその状態を 空 といいました。

人間は 空 になったときから第一歩が始まるのです。

それまでは空回り(輪廻転生)しているだけなのです。


世界平和の祈りは、自分の想念をすべて神さまに預けて


浄まった自分にきれいに洗濯して戴く方法なのです。


自然と 空 になれるメソッド(方法)なのです。




世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます




  


  

2010年8月 3日 (火)

神のみ心の中に入る

  
  
  
人間の肉体は影であって消えてゆくものです。

そしてどんな人でも百数十年もすれば死んで肉体は無くなる。

ものでも(歴史遺産は別として)百年と同じものは残っていない、街の風景とかもしばらく見ていないとすっかり変わってしまっていることに驚きます。

これから30年先がわかったところで、予想してその通りになったところでそんなことはどうでもいいのです。

現在は過去の写し絵なので、だいたい(これから先)のことはわかるのです。

そんな消えてゆくもの、花火のようなものに意識を置くのではなく、永遠につづく魂、心に意識を置かないことには人間は救われないのです。

そして人を救うこともできない。

そんな刹那的な生き方はもうやめましょう。

人間とはいったい何なのか?

それがわかればどうすればいいのか?

そのことを真剣に求めた人だけが本当に救われ、人をも救うことが出来るのです。

このことについて書いた文章があります。

よかったらお付き合いください。



 


神のみ心の中に入る


 
神の子だということがわかるまでは救われない


光になるということが、人間の一番の根本なのですよ。

人間は光なのです。

太陽のような輝く光なのですよ。

みんな光が満ち満ちているんだけれども、残念ながら自分が光であることを知らないんです。

自分は業想念の三界の、肉体の人間だと思っている。

肉体の人間だと思っている以上は、思いこんでいる以上は、これは救われない。

どんな知恵があろうと、どんな知識があろうと、どんなに金を持っていようと、どんなに地位が高かろうと、どんないい行いをしていようと、それは救われには入れない。

いい行いだけをしていれば、いいというものじゃない。

いい行いというのは、前にもいったことがあるけれども、過去世の因縁によって、つまり過去世でさんざん悪いことをしてきて、死ぬ間際にさんざんひどい目にあって、また地獄まで落っこちて、そこでひどい目に会うから、ああ悪いことをしたからこうなったのだ

私は生まれかわったら、いいことをしなければならないんだ、もう悪いことはしない、いいことをしようと思いこんで生まれかわってきた人は、いいことばっかりをするんです。

しかしそれだからといって、神さまがわかっているわけではない。

いいことばかりして、助けたりするけれども、それだけでいいというんじゃないのです。

それだけでいいのなら、神も仏もいらないんです。



これは大事なことです。


いいことをしている、というだけではまだ足りない。

それは前世の因縁でお返しをするために、いいことをしているんだからね。

それは三界(肉体界、幽界、霊界)のこと、業想念の中のことなのです。

それだけじゃまだ足りない。

何が足りないかというと、人間の本体が神から来ているんだ、神さまの子なんだ、ということがわからない以上はだめなのです。

神の子だということがわかるまでは、本当の救われに入らない。




                 つづく





感想
 

さて、ここまでのところを読んで、目からうろこでした。

私たちはいい人であればもうそれでOK

いうことなし

と思っています。

でもそれは前世で相当悪いことをしていた人が反省として

今はいい人になっているだけに過ぎない

そんなことはどうでもいいんだ

とそこまで五井先生は言っておられるのです。


厳しいなぁとも思いますが

だったら

いい人といわれている人の魂が救われているか?

いい人と言われている人は本当の意味で真実にいい人なのか?

は別問題なのです。

この先を読んでいくともっと深い真理がわかります。

明日、又続きを書きます。
ペン




世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)





             



  
  

日々の祈り (まことの愛)

  

8月3日の日々の祈り



愛の心から憎悪の想いは絶対に生じるわけがなく、つねに光に充ちているのです。

愛するということは、光を他に与えることであります。

神様はすべてを与えっぱなしに与えつづけております。

そして何ものからも、その報いを受けようとはなさっておりません。

愛とはそうした神のみ心であります。


人間は愛の行為によって、神のみ心と一つになり得るのです。


その愛の行為のうちで、最も高いとされているのが、神を愛する心、信仰心なのであります。

神を愛するということはどういうことかというと、神の実在を信じ、そして仰ぐとともに、神のみ心を行為にうつして生活してゆくということであります。

真の愛には裏表はないのです。





  
              「日々の祈り」 五井昌久 白光出版

 


 

感想


今日の日々の祈りは、すべての文章にうなってしまうのです。

私の場合のうなるとは共鳴して心がビンビンに響く感じです。

神様は与えっぱなしでそれでいて何も求めようとはしない、

男女の見返りを求める愛は、愛なんかじゃない! 愛と呼ぶのが恥ずかしくなるような気がしてきます。

でもそんな人間も純粋な愛を求めていて感動的な場面に出逢うと歓喜の美しい涙を流すのです。

人間は素晴らしい!

と実感する瞬間ですよね。

人間とは神と動物(つまり感情の生き物)の間に生きている、だから人ではないといわれています。

人とは人(霊止)という意味で、神霊が宿っているのが本当の人(霊止)なのです。

だから人間と人とは違う。

私たちは人間から人(霊止)になるために生きている。

つまり神である自分を顕すために生まれて来たのです。

それは本当の愛を体験する度に本来の自分が輝いてくるのです。ぴかぴか(新しい)

奥にある光が表に現われて輝き出すのですね。ぴかぴか(新しい)


そして愛には裏表がない

「あの人は愛せるけど、この人は愛せない」

は違うのです。

すべての人、神様が創ったすべてのものを愛せるようになる


そのような心境になって

はじめて

神様と一体となるような気がします。


世界平和の祈りは

そのような大きな心になるための祈りなのです。

とてつもなく大きな(無限)心と共鳴する祈りなのです。






世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)

日本が平和でありますように

わたくしたちの天命がまっとうされますように

守護霊様ありがとうございます

守護神様ありがとうございます



  


  
 

2010年8月 2日 (月)

日々の祈り (憎しみは消えるのみ)

  
  

8月2日の日々の祈り


ともすれば、愛は執着の想いを伴いやすく、愛の心の流れが把われの想いで、一つところ、一つの想いにとまってしまうのです。

サァこうなりますと、愛することが苦しみとなり、愛されることが重荷となってきまして、神のみ心をはなれた、神のみ心のなかにはない、業想念波をまきおこして、そこに不幸や非劇が生まれてくるのであります。

愛と憎しみは裏表だ、愛の強い人は憎しみもそれだけ強いのだ、などという人もいますが、それはあやまりであって、愛と憎しみとは、全然種類の異なった想いで、愛は神のみ心の本質的な心であり、憎しみは神の中にはない、いわゆる実在的ではない想いであり、やがて地球界からなくなる、消えてゆく姿の感情想念であります。






 


感想


実は、アセンションするとは次元上昇して今迄とは全然世界が現われるとは、感情がなくなることを意味するのです。

お金が無くなるのもこれと深い関係があるのです。

お金は勘定です、感情とイコールなのです。

人間は感情を超えないと立派になれない、悟ることは出来ないのです。

いくら素晴らしいと言われている人でも、どんなに社会的に貢献している人だとしても、人を見下げるような言動をとったり、言葉を荒げて感情的になっている人を見ると

「あぁこの人はたいしたことはないのだなぁ」 と思ってしまうのです。

自分の気持ちをコントロールする、気持ちを鎮めることの出来ない人は3次元では成功したとしても宇宙から観れば、マイナスのエネルギーを振りまいて宇宙の調和を乱している人なのです。


宇宙(神)は、そういう人には、お釈迦様やキリストの持っていた神通力は与えないのです。

というよりその人が自由自在心にはなれないということです。


しかし今の話もやがては消えてゆくものであり、みんなが悟りの境地に達するのです。





  


2010年8月 1日 (日)

日々の指針 (愛の真実)

  
  
8月1日、日々の祈り


愛というのは、合、相という言葉と同じ意味を持っておりまして、自と他とが一つに合する働きをする時に、起る心の状態です。

神のみ心は、すべてを生みなしたるみ心なので、神のなかには、自と他という区別がないわけであります。

そこで神は愛そのものである、ということになります。

そのような神のみ心は、分霊である人間のうちにも働いておりまして、愛したい、愛されたい、愛せずにはおられない、という想念が湧いてくるのです。

そして、この愛の心が天にむけられた時、魂の内奥にむけられた時には、神への信仰、神への愛となり、人類社会に向けられた時には、人類愛になるのであります。




    
          日々の祈り 五井昌久 白光出版


 





 
感想
 

愛というのは、自分と相手の人の心が一つになったときに生まれる。

感動も同じですよね、自分の心が何かに動かされて、その何かと溶け合う、一つになる。

その時ほど至福の幸せ感を得られるときはないのです。

本当の幸せ者とはこの幸福感をどれだけたくさん味わったかではないかと思うのです。

同じ事に遭遇しても、それをただ通り過ぎるだけなのか?

感動で受け入れるかはその人の愛深さ密度の濃さによります。

愛の薄い人は感動も少ないのです。

幸せになるためには愛深い自分になることしかないのです。

愛深くなると神に近づいていく・・・・。

それは神(大自然、創造主)は、愛そのものだから

か~あ

み~い

アセンション(次元上昇)とは人間が神になるときなのです。




我即神也

人類即神也



  


 

続・如是我聞

  
  
  
1.調和とは自分がなくなることである。



1.人間大きくなりたかったら、自分の責任を他に転嫁するな。

 
 
1.悪のうずまく時代においては、お説教や言葉でいくらいいことをいっていても、相手は変わらない。それよりまず自分が浄まって、その光をふりまくことである。その光にふれて人は変わってゆく。

  

1.組織(会社・党・組合等)の中で発言するのではなく、宇宙の法則、人間の原則に立って発言せよ。そうすると自然に人はついてくる。



1.肉体人間では何事もなし得ない。肉体人間観をすてることである。つねに宇宙の原則、永遠の生命観に立つよう心がけるべきである。

 

1.私はここ百年、二百年のことより、永遠の生命をつねに見つめ考えている。百年、二百年のことは大体決まっているようなもので、それが地に現われてくるのである。だから、目先のことに一喜一憂することはないのだ。

一喜一憂しなくなると、脚下照顧となって、一日一日が大切になってくるのである。



*脚下照顧(きゃっかしょうこ)自分を振り返ってみる、見つめ直すということ




             

               五井昌久  



  


  

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