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2010年7月20日 (火)

生きている念仏 3

              
 

               * 



宇右衛門は自分のことよりも、人の為に村のために働いた人であります。総体に百姓は夏

田の水入れに皆苦労するのです。

干ばつになると特にひどく、みな吾が田に水を入れようとして、水喧嘩を起したりします。

我田引水(がでんいんすい)とはここから起った言葉で、この世の生活には個人個人の関

係から、国際間の問題でも、この我田引水的やり方が多いのです。

ところが宇右衛門は全く反対で、もし他人の田に水がない時には、自分の田の水を落して

入れてあげます。

そうして、私は水上ですからいつでも水が入れられますといい、水上の人には、あなたの

田は水上ですから、遠慮なく入れて下さいと申します。

このようにあまりにも人の善い宇右衛門の行為には、村人も気の毒がって、皆々そのまま

帰ってしまいます。

こんな風でいて、宇右衛門は村でも有数の資産家になってしまうのです。



   

              *




又、宇右衛門は入信以来、如何なる事にも腹を立てたことがなかったので、村の悪い青年

たちが四、五人集まって、宇右衛門を怒らしてみようと相談して、或る時、柴を背って姫路

の御坊へ急いでゆく宇右衛門を川の中へつき落してしまいます。

つき落された宇右衛門は、ずぶぬれになりながら、怒ろうともせず、南無阿弥陀仏、南無

阿弥陀仏と念仏を唱えながら

ああ、己が悪かったのだ、如来様へお供えする御仏飯をたく柴が、山で牛や狐や人間の

小便で汚れているかも知れないのに、洗いもしないで持参するのが悪かったのだ、これか

らは柴や薪をよく洗ってもって行け、との仏様のいましめだと了解して、その後は必ず柴や

薪は洗って御坊へ持ってゆきました。

村の青年たちも宇右衛門の信徳に感化されて言行をつつしみ、殺生を戒め、風儀とみに

改まり、淳朴温厚、家業に精励したということであります。━


この話など、良寛さんの舟頭に川に落とされて感謝した話とよく似ております。実にみ仏に

純一そのものの生き方です。

こういう話をきいておりますと、自然と心清まり、心温まる想いがします。

今更ながら、宗教の道とは言葉でなくて、その人の日頃の行いにあるのだなぁ、と思いま

す。

ついでにもう一つ宇右衛門について心温まる出来事を書いてみましょう。



          



                 *


或る年の冬、宇右衛門の息子の嫁で、わがまま気ままの一家の手に負えぬ女が、宇右衛

門の物の言い方が悪いといって、庭にあった横槌を取って舅に投げつけました。

その槌は宇右衛門の額に当ってたくさんの血が流れました。側にいた温厚な息子も流石

に腹を立てて、お前のような女房は離縁すると門口へ引き立てて行きますと、宇右衛門は

びっくりして、我が子の袖をひきとめ 「この親父が悪いのだ」 といって謝ります。

息子は 「とんでもないお父さんが悪いのではない。お父さんに手をあげるようなこんな不

考な嫁は、切り刻んでも腹の虫が納まりません。何故お父さんは、こんなわがままな嫁をと

めるのですか」と申しますと、宇右衛門は涙を流しながら「うちでさえ辛抱の出来ぬ嫁がよ

そへ嫁入って一日も辛抱できるはずがない。この家を追い出されては、この嫁の身の置き

所がなくなってしまう。おれさえ辛抱すれば大事にならず納まるだ。

不心得な嫁を貰ったのはそちの不幸せ、私の因縁の悪いせいじゃ、何事も堪忍せよ。」と

かえって息子をなだめ、お仏壇に参りお光をあげ、念仏を唱えて明るい顔をしていました。

流石の嫁もこの宇右衛門の深い愛に感激して、大いに後悔してあやまり、その後はうって

かわった孝行な嫁となったのであります。━

この話なども、全く恐れ入ってしまう程、み仏の心に徹しています。

私の常に説いている、すべては過去世の因縁の消えてゆく姿、ただ在るのは神仏のみ心

だけなのだ、という真理そのままの生き方をこの宇右衛門さんはしているわけです。

それがわざとらしくするのでもなく、気張ってするのでもなく、その場、その時々の出来事

を、自然に光明化してゆく、無為にしてなす、という行為を、宇右衛門さんはいつの間にか

体得してしまっていたのであります。




                   おしまい


  

     『生きている念仏』 五井昌久 白光出版




  




 
感想
 

宇右衛門さんの生き方をみてみると腹を立てることがもう違うのだ間違いなのだというこ

とがわかります。

どれだけ自分が正しくてもどれだけ相手が悪くても

そこで腹を立てて相手を責めてしまったら、そのときは溜飲を下げたとしても、気が済んだ

としても後味の悪さは必ず残るのです。

その理由(わけ)がはっきりわかったように思います。

私が世界平和の祈りをしているのも、真理を勉強しているのも

この宇右衛門さんのような生き方をしたい

心境になりたい

という気持ちが潜在的にあったように思うのです。


 



世界人類が平和でありますように ぴかぴか(新しい)




  

 
 

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