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2010年1月 3日 (日)

“愛” を考え直そう

 
  
私が今読んでいる「愛すること」の本の中に考えさせられる文章があったのでご紹介します。



 “愛” を考え直そう
 


母親が子供を愛する愛などは、本質的には純粋であるのですが、子供が大きくなるにつれ、子供の本質をみぬくよりも先に、自己の欲望を達成させるための、自己愛の延長として、なにやかと世話をやき、形にはめてゆこうとする傾向が多くなってゆきます。

我が子というものを、神からおあずかりしたもの、社会国家人類という大きな生命体の一つの生命、というような、大きな考えから育ててゆくのでなく、ただ単に我が腹を痛めた子、自分たち夫婦がつくったもの、という小さな範疇に我が子を置いてしまうのであります。


こういう小さな考えのもとに育てた子供が立派な人格者になるわけがありません。小さな自分勝手な、利己主義的な人間になってしまうに違いありません。

なぜかと申しますと、育てる親の心が神を愛する想いも、人類愛の想いもなくて、ただ、自分と自分の分かれを愛するという、天にもつながらず、地にもつながっていない、宙ぶらりんの自己愛、ほんとうに小さなエネルギーの蓄積だけの生き方でしかないのですから、大生命エネルギーの供給をいただけないことになってしまいます。

真実の愛というものは、縦には神とのつながり、横には、小生命と小生命のつながり、というように、生命と生命が交流しあうことでありまして、お互いの欲望と欲望が通じ合ったり、肉体と肉体が一つになったりすることではありません。

親が子を愛するのでも同じことで、自己愛の欲望を充足させるために、子供を大学に入れ、成績をあげさせるための教育ママになったりするのは、その子を真に愛している心より、自己の欲望を愛する、ということになるのでありまして、もっと根本的な愛の心というものを考え直さなければいけません。

まず、赤ちゃんがお腹の中にいる時のことから考えて下さい。
どうして赤ちゃんがお腹に宿ったのでしょう。
そりゃあ、精子と卵子が結合したからだ、というけれど、精子でも卵子でも人間自体がつくったものではありません。

なにか不可思議な力がそこに働いて、赤ちゃんという生命をお腹に宿した、というより他に言葉はありません。

不思議でもなければ神の力とかなんとかいうのでもない、という人があったら、自分自身もう一度、自分の力で赤ちゃんとして宿ってきてごらんなさい。

そんなことができるわけがないでしょう。

人間の誰にもできないことを、無限といいたいほどの数をつくりあげている大自然の力というものは、いくら尊敬しても崇めても足りない尊いことです。

人間には一つの生命さえつくりあげられないのに、大自然(神)は無限の生命をこの宇宙につくりあげて、秩序よく調和せしめているのです。

こういう根本的な生命礼拝の気持ちをもたなくて、ただ単に赤ちゃんができた、自分の子だ、自分たちだけの子だ、と自分勝手に育ててよいわけがありません。

夫も妻もそしてその子もすべて神より分けられたる生命です。

神からいただいた生命を、ただ自分たちの生活のためだけにつかってよいわけがありません。

子供が親にそむけば親不孝であると同じように、人間が神の真意にそむいて、縦の神との交流も横の人類愛の心ももたないで、自分たちだけの生活の中にひきこもろうとすることは、神になんの恩返しもしないことでもあり、神の大生命からもしだいに離れ、人類の生命体から離れてゆくことで、その死後の生活がいかに淋しい孤独なものであるかは想像に難くありません。




 

         愛すること  五井昌久 白光出版




 

 

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