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2009年11月26日 (木)

真実の幸福

 
   
私たちは色んなことで悩みます、ストレスを感じます、気持ちの整理をしようとします。

でもそのときに少しは落ち着いたように感じていても本当に解決したことにはならない。

誤魔化しながら生きているわけです。

自分の心に正直に生きていないからいつも悶々としている、スッキリしないのです。

これから下記に書いた(書き写したですが)文章は仏教で言えば般若心経だと思うのです。


般若心経(はんにゃしんきょう)は素晴らしい教えなんですが意味がわかりません。

相当悟った人でないと理解出来ないのです。

それをわかりやすく説いたものがこの文章だと思うのです。

何回も読み返しているうちにきっと判ってきます。

腑に落ちてくるのです。

それは真理が書いてあるからです。

潜在意識の奥では知っていることだからです。

この潜在意識が納得しないと本当に幸せにはならないのです。

上辺だけでは何もわかったことにはならないからです。

人間とは奥の深~い存在だからです。

もう何回も読んだ人も

噛みしめてみてください。

きっと前回とは違う発見があると思います。わーい(嬉しい顔) ぴかぴか(新しい)

 











質問

人間の不幸は、人間の真実の姿を知らないところからくると思います。

たいていの人は幸福を外にだけ求めて、内にあることを知りません。

真実の幸福ということについて一言お願いいたします。





 
答 

本当の幸福というのは、一言でいえば、人間の本心を顕すということ、自分自身を知るということです。

ソクラテスじゃないけど、

“汝自身を知れ” というように、自分自身を知ることが一番幸せなんです。

自分の本体が分かり、本質が分かるということほど、幸せなことはありません。

もう不退転で、驚くことが何にもなくなるわけです。それには何も付け加えることがないんですよ。

それはどういうことかというと、まあ、自分というものは神様から無限に生命の波を頂いている。

いわゆるエネルギーがエネルギー源から常に流れてきて、必要な物はすべて与えられるんだということを知ることなんですね。

それが一番幸福なんです。

それを外から与えられるという形で思うからいけないけれど、内から━
もっと言い換えると、人間というものは、本当はこの五尺何寸という、そういう目に見えている形じゃないんですよね。

波動なんです。

光の波動なんだけれども、ふつう肉体にいる人は光と業想念の黒雲の波動が混ざって、少しまだらになっているのです。

その光の波動は大生命の根源から流れてくる。

宇宙子科学でいえば、宇宙子波動です。

宇宙子がたくさん集まって、この生命体になっているわけですね。

だから神様のほうを向いてさえすれば、神様につながってさえいれば、その人に必要なものは何でも与えられる。

ところが必要でないものを与えられると、非常に困ることがある。

例えば、今お金が必要でもないのに、百万円与えられた、千万円与えられた、一億円与えられたとする。

すると皆さん、どうやって使っていいか分かりませんよ。

もし、ここに五億ある。

「五億やるから、今月中に使え」 と言われたらどうします?

一時は有難いな、と思ってみるけれども、使えませんよ。

人にやるよりしようがない。

ところが人にやるのはもったいない。

そこでこうやって抱いているか、あるいは滅茶苦茶に使ってしまう。

そうすると、全然、生命(いのち)が生きたことにもならなければ、人を生かしたことにもならなくなって、持て余してしまいます。



よくこういう話があるんですよ。ある人が土地があって、それを売ったわけです。そしたら何億の金で売れちゃった。

ところが税務署に何億と届けたんじゃ、税金をごっそり取られてしまう。

多ければ多いほど、取られるんですから、それで、何億って売ったものを何千万にして、届を出したわけ。

すると、あとのお金はどこに置いていいか分からないんですよ。

まあ、五億でもって、三千万という届を出したら、四億七千万の金が出来るわけですね。

それをどこへやっていいか分からない。

銀行にやっても、調べられたら分かってしまう。

その金を持って、困っちゃう。

どうしよう、と神経衰弱になってしまう。

金をあんまり持ったために神経衰弱になってしまう。

そういう話があるんですよ。

だから与えられたのはいいけれども、与えられたことがかえって病人にしてしまう。

あまり必要のない時に与えられたのでは困ります。

必要な時に、三千万いれば三千万パッと、百万いれば百万パッと与えられれば、もう何もお金のことを考えないで、スラスラ出来るわけでしょ。

そういう与えられ方が一番いいわけね。

だから神はなくてはならぬものを知り給うのだから、神様の中に全部入れておいて、それで、常に自分はなくてはならぬものは与えられるんだ、という考え方のほうがいいわけです。

常に神はなくてはならぬものを与え給う、お金にしても、力にしても、神様はすべて私に与えてくださるんだ、という信念があるほうが幸せですよね。

そういう信念がありますと、例えば、貧乏しても、ああ、貧乏、これでいいんだ。自分は与えられないけれど、これは経験なんだと思う。

お金が与えられれば与えられたで、使い道があるんだし、使い道がある時に与えられるんですからね。

私どももそうですよ。

例えば、お金をパッと出す。何かあると惜しげもなく出しちゃう。

そうすると必要なものはパッと来る。

もう時には一銭も違わないで来るんだから。

百万欲しければ百万。

百五十万欲しければ百五十万。 半端まで来ます。

何十円まで来ます。

必要なものはキチッと来るんですよ。

驚くように来る。

そういうものなんですね。

必要な物は絶対に来る。

だから必要でないものは来ない。

私どもは全然、無理しないです。

建物だって、必要でない時は建たないんだし、必要な時はお金が来るから建つ。

お金がなくなって必要がないから建てない。

もうそれだけの話です。

だから至極呑気です。

少しもアタフタしません。

お金が入るつもりでもって、先にでっかいものを建てちゃった。

さあ、後で入らなくなっちゃって、もう警鐘を乱打して、皆から絞り取るなんて、そんなことを他ではやっているわけですけれども、うちではしません。

それは必要ないから。

必要ないものはやらない。

神様から来ないものはやらない。

神様から来たらやればいい。

そういう考えでしょ。

少しも焦らないわけです。

それは個人としてもみなそうなんです。

だから一番の幸せな生き方というのは、神様と常に繋がっているんだ、自分は神によって生かされているんだから、自分の必要なものはすべて与えられる。

だから自分はその置かれた環境でただ一生懸命やっていればいいんだということです。

それが本当に分かっていると、こんなに呑気なことはありません。

それで、この世に必要がなくなれば、あの世に行くんだと、そこまで決めていれば、呑気ですよ。

みんな与えられているんです。

そこまで行くと一番呑気なんです。

そうなるんですよ。

すべて自分で生きていると思うから、神様と切断してしまう。

もう生まれた時はただなのにね。

私、いつも言うけれど、何のなにがしというお母さんとお父さんの間に女の子として、あるいは男の子として、生まれようとして生まれた人はないわけです。

魂的には分かっているけれども、肉体的には分かりゃしません。

それが知らないうちに生まれてくるんです。

貧乏な家に生まれようと、金持ちの家に生まれようと、それは肉体の自分としては分からないわけです。

生まれてきてしまうんです。

生まれた時に、何にもお金を払っていないです。

赤ん坊がお金払って、お父さんいくらあげます、お母さんいくらあげますから、生んでください、というのは聞いたためしがない。

ただで生まれてくるわけです。

初めからただで生まれてきたのに、何を欲張って金を欲しがるのでしょう。

一番の生命の元をただで生んでくれたんだから、この世を去るまではちゃんと生んでくれた人が知っています。

生んでくれたのは親ではありません。

親に働いた力、神様です。
 

神様が生んでくれたんだから、その生涯は神様が保証しているわけですよ。

それを保証されないと思って大体忘れてしまうんだね。

生んでくれた力を忘れてしまって、だんだん自分が自分が・・・・・、これは自分の考えだ、私のことは私が知っていますよ、って、こうきちゃう。大概、皆さんもやりますよ。

自分のことは自分が知っている、と言っても、何も知りゃしません。

「じゃ、あなた明日はどうやっているの、明後日はどうするの」 と聞かれても知りゃあしません。

自分個人というものは、常に世界と繋がっています。

日本の国ともつながっている。

例えば若い青年がいるとする。二十歳か二十二、三の青年がいたとする。

「俺のことは俺が知っているよ。余計なこと言わなくていいよ。俺の自由だ」 と言ったとします。

さあ、今度は日本が再軍備なら再軍備になったとします。

そして徴兵令が敷かれたとする。

たとえの話ですよ。赤紙一枚で、否でも応でも兵隊へ引っ張っていかれる制度になったとします。

「俺のことは俺が知っているよ」 と言ってて、明日、交通事故で死なないとは限らない。

飛行機に乗って死んじゃうかもしれない。自分で知りゃしません、一つも。

それをあたかも自分のことは自分で知っていると生意気なことを皆言うけれども、何も知っちゃいないんですよ。

何にも知っていない。

知っているのは誰かというと守護霊、守護神。要するに神様が知っていらっしゃる。自分の中の分霊の元が知っているだけです。

それを自分であたかも知ったような顔して、私はおかしくてしようがない。

顔を見ちゃう。何言ってるんだろうと、何も知らないくせしてね。

だから、どうせ知らないんだから、何も知りゃあしないんだから、全部まかせたほうがいいでしょ。

まかせて、ああ、生かされている生命だから生かされている間は生きる。

自分に与えられたものは出てくるんだ。

だから、「どうか神様、自分に与えられた力を充分に出せますように。

すべてを愛する愛深き自分にならしめ給え」 と、そういうふうに、人のために働けるような祈り言をすればいいんですよ。

「がっぽりお金が入りまして、地位がうんと上がりまして、どうぞお願いします、家内繁盛・・・・・」 そんなことばかりやっても、何にもなりゃしない。

「お前が言わなくたって、こっちでやっているんだよ」 って向こうで言うわけです。

神様のほうではね。向こうさんでやってくださるのに、こっちで余計なことを言わなくったっていいんですよ。

なくてはならぬものは与えられている。

生命が先に与えられているんだからね。

だから、いい悪いにかかわらず、生まれてしまったんだから、生まれたら、最後まで神様の責任なんだから、神様にまかせておけばいい。

それで与えられた才能を充分に生かして努力して真剣にやって磨いていけばいいのです。

与えられた生命をより良く生かすという、それだけが大事なんです。

それ以外のことはありませんよ。

それを「信仰している、私は宗教をやっている」 と言いながら、いつも神様を疑ってしまう。

“私はこんなにやっているのにダメなのかしら。与えられないのかしら。私はこんなに一生懸命、薬を飲んだり、養生をしているのに、いつになったら丈夫になるのでしょう” とか・・・・・・。

そんなことは向こうさんで知っているわけ。

丈夫になるだろうかとか、貧乏がどうだろうとか、何だかんだという余計な心配をする想いが、神様の生命がスーッと流れてくるのを邪魔しているんです。

邪魔しちゃって邪魔しちゃって、

「もうしようがない奴だな、余計なことを思いやがって、思わなければやってやるのに」 と、神様のほうで思っている。

守護霊、守護神のほうで思っている。

だから想いというものは邪魔なわけですよ。

そこでまた繰り返すけれども、お釈迦様は空になれ、空になれ、って坐禅させたんだし、老子様は無為だ、無為だ、無為にしてなせ、ってやっているわけです。

だけど空になれ、と言ってもなかなか空になれないし、無為になれ、と言っても無為になれないから、私は現われてくるものは消えてゆく姿ですよ、と言っているわけです。

消えてゆく姿なんだからそれに把われることはない。

しかし把られたら把われたでいいから、把われた想いを、もっと大きな高い所に、神様の中に入れてしまいなさい。

ただ神様、神様と言っても神様は見えない。

どこにいるかわからない。

神様どこです?

私の想いをとってください、じゃ分からない。

そこで “世界人類が平和でありますように” という神様のみ心ですね、神様のいわゆる理念といいますか、神様のみ心の世界人類が平和である、という所へこちらが 「世界人類が平和でありますように」 って持っていって入れてしまいなさい、というわけですね。

どんなことが出てきても入れてしまいなさい。

貧乏が出てこようと、病気が出てこようと、短気が出てこようと、妬みが出てこようと、そういうものは、みんな 「世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私たちの天命がまっとうされますように」 って、そこへ入れてしまいなさい、と言っているわけです。

楽なもんですよ。

入れてしまうと、邪魔する想いが、その目的の中へ入っていまうでしょ。

世界平和に祈りというのは、大光明、神様のみ心だから大光明です。

だから想いをどんどんどんどん消してくれるわけですよ。

ゴミを持って行って、捨てればいいでしょ。

そうすると空(から)になるでしょ。

それと同じで、神様は、もうパーッと燃え上っている溶鉱炉だと思えばいい。

鉄でもなんでも溶かしちゃう。

そういう溶鉱炉だと思えばいいですよ。

その中に、世界人類が平和でありますように、って入れれば、溶鉱炉がいっぱいに燃え上っているんだから、その中にどんなゴミでも、どんなものでも投げ込めば、みんなパーッと燃えて光になっちゃう。

そういうふうに思えばいいです。

本当にそうなんだから。

だから、どんな悩みがあろうと、貧乏があろうと、病気があろうと、自分がいけないと思う心があっても、あいつは嫌な奴だと思う心があっても、そんなものはみんな世界平和の祈りの中に入れてしまいなさい。

世界平和の祈りの大光明が、溶鉱炉がみんな焼き尽くしてきれいにしてくれる。

光一元にしてくれる。

そうすると、それがまたこっちへ流れてきて、こっちは光輝く人間になるんだから。

邪魔な想いをそこに捨てなさい。

“消えてゆく姿で世界平和の祈り” と一生懸命、私が汗を流して説いているわけです。


             (昭和41年3月)





  


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