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2009年11月30日 (月)

生きがいのある人生

   
    
どんな環境でも生きがいはある

生きがいとは一体何であろうか。

多くの人が閉塞感を感じている現代社会において、生きがいを持って生きている人とは、一体どのような人なのであろうか。

昨今の若者に

「あなたの生きがいは何ですか?」と質問しても、大抵の場合、すぐには答は返ってこないという。

本当に生きがいを持っている人はわずか0.数パーセントしかおらず、ほとんどの人は生きがいを感じていないのが現状である。

しかし、自分が今どんな状況にあろうとも、どんな環境に置かれていようとも、どんな苦悩を抱えていようとも、生きがいを持って生きることは絶対に出来るのである。

病気で明日の命が判らない人や、会社からリストラされた人、また、充分に働けるのに定年を迎えてしまった人でも、真の生きがいを感じながら生きている人たちは存在しているのである。

彼らは何故、逆境の中でも生きがいを持ち続けることが出来るのか。

その答はただ一つ。

彼らは信念が強く、自分の天命や目的や夢をしっかりと持って生きているからなのである。

要するに、真の生きがいとは、自分が今、どんな環境にあろうとも、どんな苦境に立たされていようとも、それらに負けないように努力し、自分自身の力で目的に到達することなのである。

いかなる困難にも負けず、あらゆる中傷にも屈せず、目の前の障害を一つ一つ乗り越えようとする信念、そしてついに自らが掲げた目標に到達時に内より湧き上がる

「自分にも出来たんだ!」

「自分にはそれが出来るんだ!」

という喜び。

それこそが、人間にとっての真の生きがいなのである。

しかし、その生きがいの意味を取り違えている人が、世間には何と多いことか。

昨今の人々が抱く願望や目的、夢、憧れの大半は

「自分の仕事がうまくいくように」 とか、「自分の結婚がうまくいくように」 とか 「自分が成功するように」 とか 「人から羨ましがられるような生き方をしたい」 といった身近で外面的なものである。

自分のポジション(立場)がよくなれば、生きがいを感じられると信じているのである。

だが、そうした物質的・外面的な目的や願望を達成した時に得るのは幻想の喜びであって、魂の喜びではない。

そして自らの目的、夢が幻想であるならば、いくらがむしゃらに努力して、その目的地に辿り着いても、結局は何も残っていないことに気づくだけなのである。

欲しいものは手に入ったが、ただただ虚無感だけしかなく、そんな自分に対して

「何のための命なんだろう、何のために生きてきたんだろう。今まで自分はどれだけの人を蹴落とし、どれだけ汚い努力を重ね、人を傷つけて生きてきたことか・・・・・・」 とついには自己嫌悪や自己批判を始めてしまうのである。


このように、自分の成功物語や有名物語、社長物語をつくり上げ、その中のヒーローやヒロインになっても、本当の意味での生きがいを得られるわけではないのである。

もちろんいかなる体験にも学びはあるため、それらが誤っているとは決して言えないが、自分の成功物語を求めるだけの人生は、未だプロセス(過程)である。

やはり人から喜ばれることをして、自分も「本当にこの地上に生まれてきてよかった」 という魂の喜びを感じることが、人間にとって大切なのである。

この世界には、まだ少数ではあるが、今生に生まれてきた目的、達成すべきミッション(使命)をすでに判っている人たちがいる。

彼らは、真の生きがいを持って輝かしく生きている。

どんな状況に置かれていても、どんなに苦しくても、どんなに貧しくても、どんな障害を持っていても、生きがいを感じることが出来るのである。

自分の最終的な目標が、魂の喜びと一つにつながっているからである。

端から見れば哀れとか、変わっていると思われる状況にあっても、そうした周囲の反応に惑わされず、まっすぐに道を行くことが出来る人こそ、生きがいを持っている人なのだ。

彼らはなぜ、そのようなことが可能なのか。

自らの生きがいが欲望達成ではなく、ミッション達成であることを知っているからである。

ミッション達成への信念が魂を貫いているのである。

その自分自身の信念に従って努力を重ねることの尊さ、そしてミッションがクリアできた時の魂の喜びを知っているからなのである。

その喜びは、どんなにお金持ちになっても、どんなに有名になっても得られるものではない。

いや、お金の有無や有名無名に拘らず、真の生きがいを体得した人は、他から羨ましがられるためではなく、また他を羨むこともなく、ただひたすら自分の天命をまっとうするために生きていくことが出来るのである。


信念と生きがい


日本は今、世界で最も自殺者が多い国の一つと言われている。

会社に人生を捧げ、やがて定年が来てリタイア(退職)したあと、生きがいが何もなくなってしまう。

あるいは働き盛りでリストラされ、自分の家族の人生の先が見えなくなる。

どうやって生きていいかが分からず、他にも迷惑をかけたくない。

しかし、自分には目指すべき目的がない・・・・・・そうした人が孤独、絶望の底で感じるのは、「人生の挫折」 である。

しかも、それをクリアするだけの信念を持ち合わせていないため、結局、多数の人が安易な形で自殺を遂げてしまうという悲しい現状があるのである。

しかし、生きがいとは、会社からホープ視されることで得られるものではない。

それだけでは、人間の心は決して満たされないのである。

取るに足らない仕事しか与えられなくとも、地道に一生懸命仕事をこなすことに生きがいを見出す人もいるのである。

そういう人は、もし突然リストラされても、決して生きがいを見失ったりはしない。

コツコツ努力を重ねてきた過程で自分自身が磨き高め上げられているため、いかなる場にあっても、自分という存在が人々の小さな幸せを運んでいることを実感できるのである。

また、そういう人は、仕事量で褒められる時よりも

「なぜあなたはいつも微笑んでいられるの」 とか

「なぜそんなに優しいの」 とか

「なぜそんなに愛が深いの」

と感じてもらった時に、心からの喜びを感じるのである。

彼らは 「自分の存在価値を認めてもらいたい」 という意識を超えて

「自分の存在そのものが、人のために役立っている」 という実感があるのである。

そのため、たとえリストラになっても、年をとっても、置かれた境遇とは関係なく、逆にそれを生かして、自らの人生の中に生きがいを華咲かせることが出来るのである。

だが、そのような信念がない人たちは、リストラになった瞬間、自らの存在を否定されたと思い込み、生きる気力を失ってしまう。

そして目的もなくなる。

夢も破壊される。

そこに精神の喜び、魂の喜びが全くないのである。

今まで求めていたものは物質的欲望から発せられるものであり、それらが存在価値の中心になっているからである。


人を蹴落とし、人の分を奪ってまでして、自分が成功しようとする道を歩んでも、最終的にはむなしさが残るだけなのである。

そしてリタイアした時に、自分は人を喜ばせもしなかった、人にも優しくしなかった、人に感謝もしなかった。

その結果として、人からも無視され、人からも大事にされず、人からも助けてもらえないのだ・・・・・・ということに気づくのである。

人間は、幻想の生きがいに惑わされず、真の生きがいを実感することが大切なのである。


病気の人の生きがい


しかし、世の中には、ミッション達成が真の生きがいであると判っていても、現状ではそれが難しいと感じる方もおられるかもしれない。

病気の問題、生活の問題・・・・・種々さまざまな問題が、人々の妨げになっているのである。

しかし、冒頭でも述べたように、いかなる環境にあろうとも、生きがいを持つことは絶対に出来るのである。

以下に例をあげてみよう。

例えば、死が間近に迫っている方は、自らの生に生きがいを見出すために何をしたらいいのだろうか。

第一に 「死ぬことは恐怖ではない」 ということを知ることである。

そのためにも、死は自己の消滅ではなく光と一体となることであり、神様の世界に入ることである、という真理を自覚することが大切である。


第二に、余命が何日であろうとも、「生きている間には命がある」 ということを認識することである。

そしてその間、自らの生命をどのようにして生かすべきかを見つめるのである。

出来るだけ人の手を借りず、自分にも出来そうなことは自分でしたり、周りの人に感謝を捧げたり・・・・どんな状況でも生命を輝かせる方法は必ずある。

それが真に生きがいのある生き方なのである。

だが長期間の入院や介護生活を余儀なくされた場合は

「自分の存在が、家族の迷惑になるのではないか」 と負い目を感じる方もおられるであろう。

お見舞いや入院費の問題、手術の有無、また家族との別離に対する執着など、療養中はさまざまな不安が湧き起こってくるものである。

だが、その場合も全く同様に

「生きている間には命がある」 のである。

であるから、自分に出来る範囲で、家族に迷惑をかけないよう、介護福祉や看護師、主治医にも迷惑をかけないよう、自分自身の力を使って生きていくことを心がけるのである。

それぞれの状況の中で自立した生き方を目指すことほど尊いことはない。

病気になると、皆から存在価値を認めてもらえない淋しさ、孤独感、絶望に襲われることがある。

しかし、それを、人から認めてもらうことで解決しようとしてもダメなのである。

なぜならばそれは、他への依存だからである。

それを解決できるのは自分しかいないのである。

皆に感謝するのもいいし、「そんなに見舞いに来なくていいよ。自分は本を読んで過ごしているから」 と家族の人に言ってあげるのもいい。

これを機に、今まで自分が出来なかったことに挑戦し、依存しない生き方を選択するのである。

自分に命が残されている間は、今まで以上に凝縮した時間を過ごし、自分の生きる価値を、自分自身の中に見出していくのである。

そして、真理の書や哲学の本、あるいは世間で素晴らしいと言われる書をひもとき、自分の魂に栄養を与えることである。

病気の方に限らず、多くの人は肉体ばかりに栄養を与え、魂に栄養を与えていないのである。

いかなる人においても決して遅すぎるということはない。

今から魂に栄養を与えるのである。




高齢者の生きがい


次に、高齢になり、未来の夢がなくなった方の場合はどうであろうか。

それこそ今までの生き方を反省し、自分の余力を使って人のために尽くすことが、真の生きがいとなる。

ボランティアをするのもいいし、朝早く起きて近所を掃除するのもいい。

自分に出来ることを探し、それを率先してすることである。

その行為は、人に見せるのではなく、自分自身でそれを行った喜びを感じとれればいいのである。

陰に隠れて善行を積み重ねることほど、真の魂の喜びになることはないのである。

自分の健康のためにマラソンをしたり、自転車に乗ることも、もちろんいいことであるだろうが、それは真の生きがいにはならない。

なぜならば人は、自分という存在が人のために役立っていることを、自分自身が実感した時に、初めて真の生きがいを感じるものであるからである。

そのためには、小さなことでいいから、人のために尽くすことである。

それが魂の喜びになるのである。

最初はつまらないとか、こんなことが何になるのかとか、こんなことをしても人に認められないという不平不満が出てくることもあろう。

しかし、それを繰り返し行うことによって、自らの眠っていたDNAがオンになり、いいことをする喜びに目覚めるのである。

そして、自らがそこに幸せを見出すと、その幸せはどんどん大きく広がっていくのである。




仕事を失った人の生きがい



では、お金に困っている方は、どのようにして生きがいを感じればいいのであろうか。

明日の仕事もなく、家族が養えない状況の中で、思わず死を考えてしまうほどの苦境に立たされた方が、生きがいを感じて生きることは可能なのであろうか。

もちろん可能である。

そこに信念があれば、状況は変わるのである。

もし死ぬ気があるならば、一日十円でも百円でもいいから、土下座してでも仕事を与えてくださいというほどの意識になれば、その信念と気迫によって、必ず周りに助けてくれる人が現われるのである。

その時こそ、自我とプライドを捨てるチャンス(機会)である。

たとえ十円や百円の取るに足らない仕事でも、一生懸命仕事をすれば、家族の意識もまた変わるのである。

妻も子どもも

「お父さんが自分のステータス(身分、社会的地位)を捨ててまで頑張ってくれているのだから、自分たちも頑張らなければ」 と目覚め、一人一人の心の中に新たな生きがいが湧き上がってくるのである。

今の時代、楽してお金を儲けるための情報が氾濫しているために、却って生きがいを見つけにくくなっているのである。

楽をして何十億円儲けたところで、それは本当の生きがいにはなり得ないのである。

やはり、努力して汗を流して働くことが、魂の喜びにつながるのであって、努力もせずに運だけでお金を得ても、それはただのゲームである。

ゲームの人生など、うまくいくわけがない。

最終的には虚無感と絶望感にかられるだけである。

人間はどんな状況でもいい、コツコツと努力して自分自身を磨き高め上げ、人のために役立つことが一番の原点であって、楽をしてお金を稼ぎ、楽しい家族旅行をする・・・・・そういったマスコミが流す幸せな家族像は、みな幻想と思ってよい。

だが、その作られた幻想に惑わされる人類がいかに多いことか。

そのような中にあって、本当に自分自身を見つめ、地道に誠実に生きていけば、家族も自然にその生き方についてくるのである。



真の生きがいが輝かしい人生を創る


真の生きがいとは、自分の魂の喜びなのである。

自分の魂の喜びとは、自分がいかに有能であるかを人に認めてもらうことではなく、自分が人の役に立てているという実感なのである。

「あなたがそこにいるだけで周りが安らぎを感じる」

「あなたがいると幸せ」

「温かい感じがする」

「癒される」

と言われるような、そんな自分になることなのである。

有名でなくとも、賞を持っていなくとも、社長でなくとも、小さな善行やボランティアを通して、自分自身の魂が喜ぶことをコツコツ行うことなのである。

「これによって周りが助かるのだ」

「周りが喜ぶのだ」

という意識、愛、思いやりが溢れた時、人は自らの内に生きがいを見出すのである。

その愛や思いやりを発揮できる道を選んでいくことが、最終的には輝かしい人生となるのである。

このように、生きがいがあるかないかで最終的な人生が決まってくる。

宇宙究極の真理が判っている人たちは、常にその根底に生きがいを持っている。

真理を実践することが彼らの生きがいなのである。

だからこそ、彼らはどんな環境、どんな状況でも不平不満を言わずに輝かしく生きられるのである。


真の生きがいを見出すこと。


それが人間にとって大切なことなのである。
 



世界人類が平和でありますように

人類即神也



  



                     西園寺昌美





  


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