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2009年11月15日 (日)

これからは老子の時代?

  
       
この老子講義は去年の10月くらいにここに書いたものでした。

人間にとって、ものすごく大切なことが書いてあったのです。

でもそれを書くにはまだ早かったのかもしれません。

私たちは普段ものを考えるのに頭を使いますよね。

それが当たり前だと思っています。

ところが私は最近、頭で考えるのをやめた途端、次々に物事がスムーズにいい方向に流れることを実感しているのです。

それは業(ごう)つまりマイナスのエネルギーで動いているのではなく自分の本心から動けているからだと思うのです。

「最近、考え過ぎてしんどい」

「考えているとどうしていいのかわからなくなった」

という人は是非、読んでみてください。

きっと

「あ~そうなのか~」

という気づきがあると思いますよ。
 ぴかぴか(新しい) わーい(嬉しい顔)




      

           『老子講義』




  
老子の教えの根本は 無為に為し なのですがその言葉の意味は一言にして申しますと、為にしない、ということなのです。
 
 
何をしよう、かにをしよう、というように、肉体人間の頭脳でとやかく想いめぐらさないことが無為なのです。
 

これをしよう、あれをしようと考えつつするのではない、ということは、この肉体の頭脳智に頼って為すことは、することが小さくて、たいして人の役に立つことはできない、ということなのです。
 

何故かと申しますと、肉体人間というものは、只単なる先端の現れであって、人そのものではないということなのです。
 

人の生命というものは、肉体身を先端として、奥深くずうーとつながっているものであって、その一番深いところは、宇宙神のみ心の中なのであります。
 

ですから、肉体身として現われている、一番粗い波動の現れ、一番速度の遅い波動の現れだけを自己そのものと思っていますと、その自己だけに想念が集中していますので、その粗い波動、スピートの遅い、遅鈍な在り方の中で、その範囲、その中だけの知識や智慧で思慮分別して、自分の生き方や人の生き方を判断するわけですから、どうせたいしたことができるはずがありません。
 

小さな、こせこせした生き方や考え方しかできないのは理の当然です。
 

それはちょうど、世界という全体を知らない未開の国の人が、その国のしかも山奥の小さな土地だけの生活より知らないでいて、それだけをすべてとして他を顧みないでいるとしたら、その人の智能程度は非常に低いものであることはあたりまえのことです。

 
人というものの全体を知っている真人や聖賢の眼からみますと、人というものが肉体身だけの者だと思っているような人々の在り方をみていると、丁度そうした未開人の生活をみているようなものにうつるのです。
 

真の人の姿というものは、肉体身だけを人とみているような、そうした低い段階のものではなく、自由自在心をもつ生命そのものの存在者なのです。

 
人間生命の働きの段階は、それは非常に数多くの段階がありまして、肉体身のしかも、自己の利欲だけに想いを集中しているような人は、そうした最も低い段階の住者でありますが、人の為を想い、社会人類を想って行動しているような人でも、肉体界だけが、人間の世界だと想っている限りは、自己の肉体頭脳智だけで行動するのですから、宇宙の大計画から外れてしまう行為をしばしばすることになるのあります。


右翼の人左翼の人、何々主義と標榜して社会活動をしている人々の中には、自分自身の利害関係を度外視して、犠牲的な生活の中で行動している人も随分とあるわけです。
 

しかし、そうした善と想われるような行為であっても、人間の本質本体を知らずに行動している、いわゆる、神からみた無智の行為となることがあるのです。
 

人間の行為というものは、この肉体頭脳智で考えているうちは、どこかに抜けた、宇宙神、大生命のみ心から外れた行為になってしまうことが多いのです。
 

ですから、各自の集団が、自分の想念行為こそ、社会を善くし、世界を安定させる、と各自が想って、その行動をしているのですが、その各自の行動が、お互いにぶつかり合ってしまって、宇宙神のみ心の根本的な在り方である大調和を乱す争いごとになってしまうのであります。
 

そこで老子は声を大にして、無為にして為せ、無為にして治めよ、というのであります。
 

肉体の頭脳智に頼っている以上は、無為にはなり得ません。
 

無為になるためには一度、肉体頭脳智を何処かに無くさなければんりません。
 

私はその方法を世界平和の祈りをもってしなさい、というのです。

 
この地球界に住みついていますと、肉体身の頭脳ですべてを思考し行為するような習慣がついてしまいます。
 

そんなことは当たり前のことじゃないか、頭で考えないで一体何処で考えるのか、という反発がすぐにこだましてくるようですが、そこが、永遠の平和を地球人類にもたらすかもたらさないかの境目なのです。
 

肉体人間的な考えで、この世の中が、争いの一切無い、病気や貧乏人の姿の無い世界になると思いますか、なるとしたらどのような方法でしたらよいのでしょう、と問われたら、一体何と答えますか?
 

それは判らない、と答えられることでしょう。
 

確かに肉体頭脳智ではわからないことなのです。
 

判らないけど、誰の心にも世界平和ということと、人間の世界に老病貧苦の悩みの無い日の来るのを待ち望む心はあるのです。

 
ただ、どうしようもないので、そのことについてあまり深く考えずにその日その日の行動をしているだけなのであります。
 

それは肉体身の頭脳では判りようがないのです。
 

そこで古来の聖賢はみな、肉体智を捨てよ、空の心になれ、といい、老子は無為の道を根本の教として説いているのであります。

 
ところが人間は、頭脳で考えないでどうして行動ができようか、ということにひっかかってしまうのです。
 

それは無理もありません。
 

肉体身の頭脳の他に湧いてくるところなどありはしないと思いこんでいるからなのです。
 

しかし、私がいつも申しておりますように、人間の身体というものは、大きく分けて、肉体身、幽身、霊身、神体というように四つに分かれております。
 

それは七つの名称をつけて、七つに分かれているといってもいいし、細かく分ければ数限り無く分かれているのであります。

 
ですから、あらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのであります。
 

肉体身は先程から申しておりますように、一番鈍なる体なのであります。

 
そこで肉体頭脳にまつわる知識や想念を、肉体身より微妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえば、肉体身の頭脳で考えるより微妙な考えが湧いてくるのであります。
 

普通インスピレーションというのは、人の肉体身以外のどこかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。
 

この智慧を一番深いところ、神体より伝わるようにするためには、やはり祈りの中に自分の想念を全部投入してしまうことがよいのであります。
 

そして、その智慧も世界人類の完全平和に役立つ智慧であり、そして力であるためには、世界平和の祈りのような、そのものズバリの唱えごとがよいのであります。

 
言(ことば)は即ち神なりきでありまして、こうした祈り言の中から出てきた智慧であり行為であるものが、無為にして為せというところとぴったり一つのものになってくるのであります。

 

老子の道に至る方法は世界平和の祈りなのであります。
 



世界人類が平和でありますように  ぴかぴか(新しい)

 


                老子講義  五井昌久 



  




  

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