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2009年9月 3日 (木)

眞の感謝行

           

有難いということは
  


私は有難いんでございます、という言葉は、真実神によって生かされている自分であり、仏の慈悲によって生き得ている自分であることを観じ、得難い人間としての生をこの世界に生活していられる、という感謝、感激から、思わず出てくる言葉であって、浮ついた口調で、やすやすと云えるものではありません。

有難い、という言葉の中には、神(直霊)と肉体人間(分霊魂)との、はっきりした光の交流が業生=カルマを破って行われた時に、表面意識に知ると知らぬとに拘わらず、こうして生きていること、生かされていることに対する、万感籠った思いのほとばしり出た言葉なのであります。

事業がうまく行って有難い、病気が癒って有難い、それも有難いのでありますが、この有難さも、神のいのちを善く生き得ることが出来た、という内容を含むが故の有難さ、感謝なのであります。

また、人の愛を受けた有難さ、人の愛を行じた有難さ、これも、その行為に神のいのち、仏のいのちの顕われを観るから自ずから有難くなってくるのであります。


こうした有難さは、自然であり、深い精神につながる感謝の心であり、言葉でありますから宜しいのです自分の宗教心を人に示そうとしたり、自己の善人なることを他に知らせようとして、

私は有難いんでございます、 とやたらに自分のをも含めた人間の善行為を人々に吹聴して歩く姿は、その人間の浅はかな心を人に見せて歩いているようなもので、卑しいものさえ感じさせます。

また、ただいたずらに、すぐ合掌する人がおりますが、合掌なども、そうやすやすと出来るものでもなく、するものでもありません。


合掌とは陰陽合体の姿であり、天地合体の姿でもあって、大調和している姿なのです。

こうした真剣な、大事な行事を、軽々しくやってのける癖がつくと、常に浅いところを堂々めぐりしていて、いつまでたっても、真実の世界、神のみ心の中に飛びこんでゆくことが出来なくなってしまいます。


安易なる自慰行為では、真実の神をつかみ、真実の自己を表現することは出来ません。

こんな行為をしている人が、宗教人という者の中に多くなってゆけば、神はいつの間にか地下にひき降されて、無神論者は勿論、神を信じようとしている人達からも信仰心をマイナスしてゆく結果を生み出してゆきかねないのです。

自己の信じていることをいちいち他人に知らせる必要もなければ、しゃべりまくって、自分の宗教に人をひっぱりこむ必要もありません。

そんなこと自己の精神や行為が、自ずから他の人の内部精神、信仰心を醒めさせ、知らず知らずのうちに、他の人が、その人の周囲に集まってくるようにならなければ、とても真実の信仰に人を導くことは出来ないのです。


               


                

                       五井昌久

                     


  感想



いつも

「すいません、すいません」

「ありがとうございます、ありがとうございます」 とやたらに連呼している人がいます。

本当に悪いと思って謝っているのではないことや有難いと思って言っていないことは相手の人はわかっています。


その人の出しているエネルギー(雰囲気)でわかるのです。


どうして普通に出来ないんだろう?
 

“沈黙は金” と言われるのは本心と違う言葉を発するくらいならしゃべらずに黙っている方がよいという意味なのだと思うのです。



  

  
  

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