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2009年3月20日 (金)

見ざる聞かざる言わざるの意味とは?

  
すごく長い文章なんですが、私の心に響いた素晴しい内容です。

真理を知りたい人はどうぞ、お付き合いください。


 


五井昌久  把われないこと
 

昔からいわれていることですが、見ざる聞かざる言わざるということはどういうことかというと、見た想いに把われず、聞いた想いにとらわれず、いった言葉に把われず、すべてのものにとらわれないのがいいのだ、ということです。

大体、道とか宗教の教えというものは、すべて想いがとらわれないということを主としているわけです。

想いがとらわれなくなると、神さまからそのままくる行いが出来る。

この世の中では、テレビ、ラジオはいつもいろんなニュースを報道している。

どこどこで強盗があった、火事があった、殺人があった、と嫌なこと暗いことを聞くまいと思ったって聞こえてくる。

新聞を見れば、誘拐があった、事故があった、アメリカがどうだこうだ、見まいと思ったって見えてしまう。

ともかく、見ざるも聞かざるもありゃしない。

今は、文明文化が発達して、マスコミというものが発達してますと、こちらが好むと好まざるとにかかわらず、強制的に見せられる、聞かされる、いわされる。

だから見ざる聞かざるいわざるというのは、本当はいいかもしれないけれど、実際問題としては適用しないわけです。

そこで、私は見てもいい、聞いてもしかたがない、いってもしかたがない。

しかし、あらゆるものはいいことであれ、悪いことであれ、それは消えてゆく姿なんだから、その想いにとらわれてはいけない。

いくらいい言葉をいって、それに人が感動したとしても、それにいつまでもとらわれていたんじゃ進歩がないんだし、また悪い言葉をいっても、しまったと思って

「しまったしまった、私はなんて悪い人間だろう、何でこんなことをいったんだろう」といつまでもとらわれていたんでは、それはかえって業が積もるんだから、いってもしまった悪いことはしかたがないから

「あー悪かったな、これは消えていく姿なんだ、もう再びいいますまい、ああこれで業が一つ減ったんだ」という風に思いながら

“世界人類が平和でありますように、あの人の天命がまっとうされますように” というようにいいなさい。

そういうように想いが出た時、想いにとらわれそうになる時に、それを消えてゆく姿として、平和の祈りの中に入れさせてしまうような教えに転換させたんです。

それはどうしてかというと、私は昔とても短気でしてね、ものすごい感情家だったんです。

私は大体、本質は芸術家ですから、いいものはいい、悪いものは悪い、嫌いなものはもう我慢が出来ないように嫌だったりね。

青年の頃はそういう性質をもっていました。

だから、これじゃいけないな、こういうことじゃいけない、なんとかしてこの短気を押え、この感情に負けないようにしなきゃいけない、というような気持ちが随分強くありました。

なんとかして立派になりたい、感情にとらわれない人間になりたい、愛一念の人間になりたい、と思い続けていたわけです。

それで聖書も読めば、仏教の経典も読んだり、宗教の書、修養書など手当たり次第に読んだり、座禅観法をしたりいろんなことをやったのです。




とらわれを消してくれるもの


そのうちに、とらわれまいとらわれまいとしたんじゃ、かえってとらわれるんだなということがわかったのです。

短気だから短気をなおそうだけじゃだめなんだ。

感情にとらわれちゃいけない、とらわれちゃいけないというと恐怖心が起ってしまう。

それではだめなんだから、どうしたらいいかというと、とらわれを消してくれる何かがなければいけない、それを見つけることだと思った。

それは神さまだと思ったのです。

短気が出たら出たでいい、臆病が出たら出たでしかたがない。

感情が出たらしかたがない。

その時はどうしようもないんだから、そういう時に、ああこれは消えてゆく姿だな、ああこの世に現れているものは、みんな変化変減していく。

常時そのまま変わらないものは一つもない。 みんな変っていく。

自分はだめだ、だめだと思っているうちはだめだいけないという業がまた入ってくるわけですから、いたずらにだめだだめだと思うより、いけなかったな、しまったな、と思ったら

『あッこれは消えてゆく姿だ、どうか神さま消してください、一日も早く消して下さい、どうかあの人の天命がまっとうされますように、私の天命がまっとうされますように、世界人類が平和でありますように』

順序はどうでもよいから、そういう祈り言にして、神様のみ心のなかへ、想いをどんどん送りこんでしまうのです。

神さまは完全円満なんだし、善なんだし、大光明なんですから神様に消せないものはないわけです。

善いものは善いものでそのまま生きるし、悪いものはそのまま消えていく。

だから善悪ともども神さまの中に送りこんで、消してもらう。

そういう風に自然に教わったわけです。

それで消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えが出来たわけです。

ああ消えてゆく姿んだなあ、ありがとうございます、世界人類が平和でありますように、私がますます立派になりますように、愛深き私にならしめたまえとか、いろんな言葉で自分の願望をつけ加えてもいいから、みんな神さまの中に入れてしまうわけです。

すると、神さまのほうで、その人に一番適当な生き方をさせるのです。





肉体人間は無力なもの




肉体を持っている人間というものは、罪悪甚重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんぷ)でして、親鸞がつくづく、心は蛇蝎(だかつ)の如くなり、罪悪甚重の凡夫だ、と嘆いていたのがよくわかる。

もう相当悟りすましたような立場にいても、何やかやといろんなことがひっかかってくる。

まして一般の人はひっかかり通しなんです。

何かしらに心がとらわれている。

だから肉体を持っている人間というものは罪悪甚重の凡夫だ、ダメなものだ、ということがわからないとだめなのです。

いつもいっていることですが、心臓を動かすことも、肺臓を動かすことも、肉体の頭では出来得ない。

心臓の止まった死骸に向かって、心臓よ動けといったって動かない。

肉体から魂がぬけたら、どうしようもない。

自分のことも人のことも何事もなし得ない。だから肉体をもった人間というものは無力なものだなあ、ということがハッキリわからないと、悟りにはいかないのです。

自分でなんとか出来るんだ、という想いがあるところからは、本当の悟りも生まれてこないし、安心立命も生まれてきません。

肉体は不完全だからです。不完全なものがいくら力んだって、完全になりっこはないのです。

だから不完全な肉体というものを、一度、肉体人間じゃどうしようもないんだな、とあきらめる。

さてそれでは、なし得るのはどなたかというと、守護霊さんであり、守護神さんで、大神様であるわけです。

そこで、守護霊さん守護神さんお願いいたします。

世界人類が平和でありますように、私共の天命がまっとうされますように、と素直に自分では出来ないことを、みんな神さまに差し上げてしまう。

それがいいことも悪いこともですよ。

よいことは俺がしたんだ。悪いことは人のせいだというのじゃない。

善いことも悪いことも自分ではなし得ない。

肉体人間として生まれてきたその前から、分け生命(いのち)として分かれてきたその時からの因縁、想念や行為がまわりまわって、今日ある肉体の生活として現われている。

ですから、今日ある姿は、今つくったものではなく、今の自分が作ったものでもないのです。

今食べたものが今すぐ栄養になるのではなく、ある時間がたって栄養になってくる。

それと同じように、あらゆるものは、過去世からズーッとつながってきて、今現われてくるんで、今いいことを想えば将来に現われるんです。




今のあなたが悪いのではない



今自分の想念が悪いとする、自分の生活が悪いとする、環境が悪いとする、体が悪いとする。

それは過去世からつながってきた、原因結果がそこに現われて、病弱に現われているのかもしれない。

気が弱く現われているいるのかもしれない。

短気に現われているかもしれない。

貧乏な環境に現われ、不幸な環境に現われているかもしれない。

しかし、それは今の自分そのものじゃないのです。

過去世からの自分の想いがそこに現われて、消えていこうとしているんですよ。

それを掴まえて、私がいい悪いとか、立派だとか立派じゃないとか、悲しいとか憎らしい、とやっているわけです。

過去世のものが流れて来て、現われてくるんだから、いくら掴まったって、現われてくるものは現われてくるんです。

結果として現われてくる。だから現われた結果にとらわれたってしょうがない。

今の自分はどうしたらいいかというと、今思ったこと、今やったことが後の自分の運命を良くするか悪くするかなんですから、今までの悪いくせ、悪い環境があるその上に、私はダメなもんだ、私の環境はなんて不幸なんだろう、私は病弱だ、とつかんでいたら、また悪い同じ波が重なってしまう。

その想いの波からぬけなければならない。

ぬけるためには、それにとらわれてはいけない。

想いにとらわれてはいけないわけです。

そこで、空とか無為とかいうのです。

見ざる聞かざる言わざるもそうなんです。

  
しかし、そういうことをいっても、なかなか普通の人には出来ないから、ここに現われてきたものは、過去世の因縁の結果として出てきたもので、現われたら消えるんだから、今消えてゆこうとしているのです。

そして神さまが処理をして消してくれるんですよ。

だから、現われたら、ああこれは消えていくんだな、と消す先を神さまのなかへ持っていく。

神さまといってもどこにあるかわからないから、人類の一番の目的であり、願いである

“世界人類が平和でありますように”

 という言葉に働く大光明圏、救世の大光明のなかに、祈り言葉とともに持っていってしまうのです。

守護霊さん守護神さんお願いします、と持っていってしまう。

すると、ハイヨ引き受けたと、もともと人は完全円満なんだから、その悪いと思っている想いを、みんな消してくれるわけです。

そうすると、それだけ消えちゃうわけです。

それだけ消えると未来に現われる悪いものが減ってくるのです。

ああこれは消えてゆく姿だな、自分はこんな悪い想いのくせがあるけれども、こんなわがまま、こんな怒り心があるけれども、それはみんな消えていったんだな、あ、出てきた、けれど消えたんだな、また出た。消えたんだな、と世界平和の祈りと共にやっていくうちに、どんどん減って、未来に向かっては悪いものが出て来ない。





輝く未来が約束されている
 



未来へ向かってこんど出てくるものは、何かといったら

“世界人類が平和でありますように” というような尊い人類愛の想いが、そこにいっぱい、溢れ出てくるわけです。

愛の想いは完全円満なのだから、完全円満な姿がだんだん出てくるわけです。

消えてゆく姿で世界平和の祈り というのを、つづけて実行していればいるほど、その人の現在の心も明るく輝いてくるし、未来も完全になってきます。

しまいには絶対完全な人間になるのです。

たいがいの場合、それをいくら教わっても自分はだめなものだ、しゃくにさわる、とか、こんな不幸になって、こんな貧乏になって、こんな病弱になって、とこういうように思う。

思うなといっても、思ってしまうのだから、しかたがない。

思うのも因縁因果なので、思うように出来ているのだから。

だから、思ったら、すぐその場で、ああ先生に教わったのはここだな、と、消えてゆく姿だ、世界人類が平和でありますように、神さまお願い致します、と素直にやると、それだけ減ってゆくのです。

この教えは実にやさしくて、人をとがめるわけでもなければ、自分をとがめるわけでもない。

人間を自然の姿に還そうというわけです。

自然の姿は何かというと、春になれば芽がふき花が開き、夏になれば緑しげり、明るく太陽に照りはえる、というように自然に運行しているんです。

その運行を自然にさせないものは何かというと、神さまから離れた想いなんです。
 

その想いが勝手に自分の運命を作っている、神さまの次元としての運命と、自分の想いで作った運命とが、別々になっちゃってる。
 

だからみんな神さまにまかせて、消えてゆく姿で、世界人類が平和でありますように、とやっていけば、だんだん自分勝手な想いが消えてしまって、光一元の生命そのものの自分と、生まれかわってくるわけです。


生命一元の自分になりきってしまえば、なんにも悪いことは出てこない。

とらわれることもなくなってくる。
 

そうすれば、その人は平和になります。
 

一人の人間が本当に平和になれば、その影響は地球界に及ぼします。
 

宇宙に及ぼすのです。
 

そういう人が多くなれば、世界はいやでも平和になるんです。
 

その先達として、皆さんが世界平和の祈りを一生懸命やっていらっしゃるわけなんですね。
 

だから、皆さん一人一人が平和な気持ちになれば、それだけ世界平和に役立っているんです。
 

自分が平和な気持ちにならなければ、世界平和に役立っていないのです。
 

もし平和な気持ちがなかったら、ますます、一生かけて、二生かけてもいいから、消えてゆく姿で世界平和の祈りをやり続けるのです。
 

必ず平和な気持ち、平和な心が得られます。




                  おしまいです わーい(嬉しい顔)



  


  

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コメント

同感です。この考えが文字になって何処かに書かれていないか探していました。見える世界、聞ける世界、言葉を発っせる世界はすべて浮世、「浮世にとらわれるな」ということなのでしょうけれど、そう言われても一般の人には理解するのが少し難しいかもしれません。こちらの文章はとてもわかりやすい説明だと思いました。見つけてうれしかったです。

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