死を乗り越える
私の好きな本に、阿難(あなん)という小説があります。
阿難とはお釈迦様の側近でお釈迦様の教えを一番近くで聴き、抜群の記憶力で人々にその教えを正確に伝え、最もお釈迦様に愛された人でした。
ただ阿難の弱点とは、情に脆く、人の情に影響を受けることでした。
お釈迦様が亡くなるときに一般の人たちと同じように動揺し、慟哭した。
死は悲しみではない、他の世界(幽界、霊界、神界)への移行であり、魂は決して滅びない、魂は永遠であり、肉体は無くなっても、お釈迦様の魂はずっと生き続けるとわかっていながら悲しみ、涙した。
そんな阿難を兄弟子たちは厳しく叱った。
その涙は美しい涙だったのかというとそうではなかったのです。
消えてゆく姿に翻弄され、真理を忘れてしまったのです。
お釈迦様の肉体、目に見えるものに執着があったのです。
今年も年末の番組で今年亡くなった人たちの葬儀で
取り乱して泣いている、感情にまかせたまま嗚咽をもらしている人がいます。
真理がわからなくても、肉体においては死は必ず訪れるものだとわかっているはずです。
覚悟が必要だということではなく、死んだらどこにいくのか?
肉体の死とは何を意味するのか?
死に対して生きるとは何か?
魂は永遠なのか?
そのことを追求しないで、大事なことをそのままにしといて
感情で悲しむのは簡単です。
死がわからないとどう生きたらいいかがわからないのです。
寂しい、悲しい、本人や残された家族がかわいそう
本当にそうなのか?
近い将来、地球では、肉体界と幽界(死んだ魂が霊界に行けずにとどまっている世界)が繋がるので死んだ人と会えるようになります。
でもそのときにびっくりするのではなく、うろたえることなく、信じられないと震えることなく真実として受け入れるようにならなければならないのです。
真実がわかっていれば心を乱すことがないのです。
マイナスがマイナスではないとわかるのです。
感情に振り回されることがなくなるのです。
すべてを感謝で受け止めることが出来るようになるのです。
目に見えるものは移り変わり、消えてゆくけど、真理は真実は永遠に不滅なのです。
それは宇宙の法則だからです。
本当の勉強とは宇宙の法則、つまり真理ことです。
死は3次元以降の4次元、多次元には存在しないものです。
死は無いのです。
アセンションとは死の無い世界になることなのです。
人の死に遭遇し、いたずらに感情的に泣いたり、心を乱すことは死者にもエネルギーにおいてもマイナスにしかなりません。
死とは何か?
死んだらどこへいくのか?
私たちは何者なのか?
それを追求しなければ生きている意味がない。
ただ惰性で生きているだけです。
厳しいかもしれないけど
本当にそう思います。
そうじゃないかなぁ
小説 阿難 五井昌久
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