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2008年5月 5日 (月)

念力の恐さ

 
例えば、必要な時にお金が入ったり、家が出来たりするにはどうしたらよいか、という答えの中で、

「もし百万円ほしいなら、もうすでに百万円さずかったと思って、百万円さずかってありがとうございますと常に思いなさい。そうすれば念の力で百万円集まってくる」
 
といったり、家がほしいなら、自分の必要とする図面を書いて、「もうすでにこの家が自分にさずかっているのだ」と強く思いなさい、そうすれば心の力で家がさずかる、というように、念力を強めて、念力によって、自己の欲するものを得る、という方法を教えているのです。
 
そしてこの方法があたかも神への信仰であり、祈りでもあるような思い違いをさせてしまうのであります。
 
これはとんでもないことなのです。
 
念力はあく迄、肉体人間の自我でありまして、神への信仰でも神の援助でもありません。
 
そういう方法によって自己の望みが叶ったとしても、それは信仰の勝利ではなく、我を通しただけでありまして、その場は得をしたように思いますが、一生の間に得ることになっていた富を、一時の念力によって前借りしたようなものなので、後になってその分だけ運命の中で返済しなければならなくなります。



                     
                『人類の未来』  五井昌久


感想
 


私たちはお正月に神社に行って神様にお願いする、家内安全、交通安全、健康、受験等頭に浮かんだあらゆることに・・・・。

神社は神の社(やしろ)と書く、つまり神様がそこに住んでいるという意味だ。
 
ならば、そこに神様がいて人間がもってきたお金を引き換えにして、願いを叶えてくれているのか?

そんな虫のいい話があるのか(笑)?

私が最近云っている 想いは現実のものとなる は本当のことです。

でもそれは念力ではなく、愛の想念、行為に対して宇宙の神の自然の無限のエネルギーが動くことをいうのです。

自分の欲望を満たすのは我の汚れた有限の力なのです。
 
我を通そうとすると宇宙(神)ではなく、幽界の低レベルの化け物が寄ってきて憑依されるのです。

幽界の化け物の人間を操りたいという欲望と人間の欲望が共鳴するのです。

人間は意識がどこにあるかによって神界(神様の世界)にも行けるし、地獄(化け物の世界)にも行けるのです。

どこに行くにも自分が自分の意識が決めているのです。





  

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