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2008年1月31日 (木)

本心のままに・・・

   
自分が本心のままに生きて、人と接して、
 
相手を傷つけることはいけないけど、相手が誤解したり、考えが違うと離れていったとしてもそれは、憂慮することではない。
 
悲しいことではない。
  
相手に合わせて自分の本心に嘘をついて生きることは何よりも辛い。
 
自分が自分で無くなってしまう。
  
自分が活き活き、輝かなくなってしまう。
 
だから、誰も認めてくれなくてもいい
 
今までわかってくれていた人が去って行ってもいい
 
自分が、自分の本心さえわかっていれば・・・
 
 
自分と向き合う、自分の本心と対話する。


私にとってこんな幸せなことはない。






 





 

魅力のある人

  
今までにたくさんの魅力のある人に出会ってきました。
 
私がこの人素敵だなぁと思うのはピュアな人、心がいつもスッキリしている人です。
 
大げさに言えば、そうなるために私は毎日を生きています。
 
私にとって魅力のある人とはどんな人か?

  

1. 滝のようにいつも心がサラサラとしている人
 
2. 自分の本心にいつも素直でいようと、努力している人
 
3. どんなに人に非難されてもそれを消えていく姿と思える人
 
4. 自分が辛く,苦しくても、人にはそれを微塵も見せず、笑っている人
 
5. どんなところへも裸の心で飛び込んで行ける人
 
6. 日々、向上していこうと努力している人
 
7. 周りに振り回されず、自分の気持ちをコントロールできる人






3.の消えていく姿は少し難しいと思います。

この世に現われているのは今の現実ではなく過去の行為や想っていたことが時間を経て今に写ってきているのです。

だから実在するものではなく影絵に過ぎない。

黙って、冷静に見守っていれば通り過ぎていく雲のようにいずれは消えてなくなって行きます。

だから今どんなに辛く悲しいことがあってもそれは、消えて無くなるのです。
 
捕まえてしまうとなかなか消えません。
 
心をサラサラ、爽やかにしているとそれが早く消えるのです。




  

2008年1月30日 (水)

誰かを操ろうとすると・・・

  
1.誰かを操ろうとすると、いつか必ず自分も誰かに操られることになる。人はみな自由に生きるものである。自分がつねに自由でありたいと願うならば、人の自由を尊重し、何らの束縛もしないことだ。



感想


これは解釈でなく、感想です(笑)

人に対してこうして欲しいという欲求があるとき、自分の思い通りにいかなかったらついイライラしてしまいます。
 
そしてすぐに結果が欲しくなる。
 
それは自分の自由な心も狭(せば)めているし、人の自由も窮屈にしている。
 
ある本をなんとなく開いたら私の知りたいことが載っていました。

 
ありがとうございました。


誰にとかでなく感謝の気持ちが湧いてきました。




       
日々の指針 西園寺 昌美 白光出版






 

2008年1月29日 (火)

老子の言葉に・・・・

   
老子の言葉に 
「上徳(とく)は徳とせず、是を以って徳あり。下徳は徳を失わず。是を以って徳無し」 というのがあります。
 
上徳というのは、徳を積もうと思って徳をするのでもなければ、徳を積んだと自分で思っているわけでもない。
 
自然と行為に現わした物事事柄が徳になっている、というのであります。
 
徳というのを善い行為と解釈すればよいわけです。
 
そして下徳というのは、その人の行為が、いつも徳を積みたいとか、徳を残したいとかいう、徳という行為に自分の心が離れずにいて、徳に行為、つまり善事をしている、という程の徳です。
 
一口にいうと、上徳というのは、人為をもってするのではなくて、自然(ひとりで)に行為しているもので、その徳を何かに利用したり、どうしようというような自我の想いがでることがない。
  
下徳は、徳の行為をしても、その徳を自分のために役立てようとする行為をもつことがある、というのが老子の言葉です。



解釈
 


素晴らしい文章というのは、へたに解釈しないほうがその響きが伝わりやすいのです。
   

上記の文章は読んでいるだけで心が洗われるようです。
 

美しい音楽が流れているのに雑音が入るようなものです(笑)
 

ただ老子という人がどういう人だったか?だけ述べたいと思います。
 
 
キリストやお釈迦様はその出生(生い立ち)がわかっているのですが、老子はまったくわかっていない、どの時代に生きていたのか?どこに住んでいたのか?もわからないそうです。
 
つまり肉体を纏って(まとって)いたのではなく、心、魂、エネルギー、響きとして存在していたのです。

 
私はキリストやお釈迦様よりも老子が好きなのです。(個人的にですが)

 
それは、自分というものがまったくないクリスタル、ピュア、そんなものではない、どんな言葉を使っても表わせない、どこまでもどこまでも宇宙の果てまでも無限の響きを感じるからです。
 

言葉にする、文章にした時点でもうそれは汚れてしまっている。

 
美しい響きはすべてのものを超越するのです。



 



 

真の愛

   
1.強き者、富める者、ゆとりある者が、弱き者に同情し、助けを施すのは、真の愛の行為ではない。
情愛である。




解釈



この文は私が尊敬する 西園寺 昌美 さん という人が書かれた日々の指針という文なのですが、愛と一言で言っても多種多様の愛がある。
 
ちまたで言われている愛は、ほとんどが本当の愛ではない。
 
ここで最後に情愛とあるが、情が絡んだ愛ほど人を狂わすものはない。

 
愛を履き違えている、愛と愛情を一緒にしている。

 
貧しい国や人にお金を送って、それが愛の行為と錯覚している。

 
そんなお金があるのならどうして自立するための手段として使わないのだろう?
 

お金を送るよりも食べていくための植物を育てる方法を教えるほうがいい。

 
物資を送るよりも作り方を伝えたほうがいい。

 
私は子育てをしていく上で、う先生に、
 

「二十歳までに自立できないと子も親も不幸になります」 と諭して頂いた。

 
愛とは自分一人で生きていける力(本来持っている)を想い出させ、気づかせることだと私は思う。

 
それしかない


それ以外のものは必要ない。




  
  

2008年1月27日 (日)

意識を集中する

 
つまらないことに腹を立てたり、どうでもいいことが気になったりしているときは、意識が色んなことに分散していると思ったらいい。

 
一つのことに一生懸命になって集中していると、エネルギーが動き出す。
 

虫眼鏡で太陽の光を受けて紙にその光を一点に集中させると熱が発生し火がおこる。


意識も集中させると、そこにエネルギーが流れる。

 
私たちは日々の生活のなかで何度も意識が散漫になる。
 

散漫しているのはエネルギーの無駄使いをしているのだ。

  

何かに一生懸命になる、一つのことに集中する。
 

 
そのことを意識するだけで、全然違ってくると思います。




   
  

2008年1月25日 (金)

続々・如是我聞 9

   

気が強く、しっかりしていることはこの世での運命開拓の鍵であると同時に、死後の世界においても魂の進歩に大いに役立つものである。





解釈


気が強いとは我が強いという意味ではない、自分の本心に忠実、素直であるということだ。
 

自分の本心とは他人とは無関係であるか?というとそうではなく、本心は宇宙の根源に繋がっている。
 

人の本心も宇宙の根源に繋がっているので、自分の本心は人の本心と同じなのだ。
 

真理は一つ、魂は一つ、心は一つなのです。

 
本心に繋がっていると心の底、奥深いところから強い信念が湧いてくる。
 

気とは神様、そしてエネルギーのことを言います。


だから気が強いとは、神様の力が強く働くことを言います。




  

損して徳をとる

  
仕事の場合AさんとBさんが一つの仕事を一緒に2人でいているとする。
 
Aさんは真面目で正直、優しくてコツコツタイプ、Bさんは要領がよくて隙をみては、さぼるタイプ。
 
仕事量は均等に余裕をみて80%ずづ与えられている。
 
Bは最初は真面目にやっていたがサボりぐせが顔をだして60%そしてAがなにも云わないので40%の仕事量になっていた。
 
AはBが身体がしんどいというので20%を引き受けいつのまにかプラス40%の仕事をするようになった。
 

結果、仕事量は、A120%Bは40%になった。

 
Aは仕事量が増えた分、仕事の段取りをしっかり考え無駄のない動きをしている。

 
Bは時間を持て余して動きが緩慢になって覇気がない。
 

Aは最初のうちはなんで自分のほうが同じ報酬で仕事量が多いのだと思ったりもしたがそれも忘れてもくもくと働いた。

 
全力を出し切って充実していた。

 
そして次の日に疲れが残っていないこと、それどころか体調がいいことに気づいた。
  

エネルギーの法則は100%力を出し切ることにより次の日には100%のエネルギーが入ってくる。
 
ならば40%を出した人が60%を戴けて100%に戻るか?といえばそうではない。

 
出した力の分しか入ってこないのだ。


40%しか出さなかったら40%、60%だったら60%しか入ってこない。

 
そして 「疲れた」 といい、また力をセーブする。

 
Aさんはいつも一生懸命仕事をしているのでコンスタントに力が発揮出来ている。
 

仕事量が増えたAさん、さぼって量が減ったBさん
 

どちらが得(徳)だったか?
 
 
目にみえないエネルギーでみてみると答えがハッキリわかります。


エネルギーはうそをつかない。





  

2008年1月23日 (水)

続々・如是我聞 8

   
    
指導者の第一条件はひろい心である。すべてを入れるゆるしの心である。


  
解釈


  

指導者とは先生と呼ばれる人とは限らず人生を導いてくれる人、人の運命を預かれる人であると思います。
 

そのような立場の人は自分に非常に厳しく、私心があってはいけないし洞察力、観察力、先見性その他色んな要素がバランスよく必要である。
 

ただ、成りたい、人の役に立ちたいだけでは指導者にはなれない。
  

しかしその前に絶対的に必要不可欠なものがある。

 
それはすべてを受け入れる器、度量だ、相手の心を包みこめないとその人の心が移ってこない。
 

同じ心、気持ちになれないと・・・
 
 

そこから、何も始まらない。



  
 




  

続々・如是我聞 7

 
  
人間は考えなくてもいいことばかり考えている。
 



解釈
 


ほんと一日のなかで無駄と思えることがどれだけ頭の中をよぎるだろう?
 
人間の頭はラジオやテレビの受信機のように色んな電波?、想念という波をキャッチする。
 
NHKから民放、衛星放送、お笑いからエッチなものまで・・・
 
 
「なんでこんなことを考えるのだろう」
 
 
その考えはあなたではなく違う人の想いが移って来ているのです。
 
だから無防備にしていると頭が混乱してきて本当の自分を見失う。
 
本心に意識を合わせていないと雑念が容赦なく入ってくる。
 
 
この雑念を仏教では業(ごう)といい、キリスト教ではカルマといいます。

  
人が浄まる、地球が浄化されるとはこの雑念がなくなることをいいます。
   

人間が考えなくていいことを考えなくなったとき、異次元へと進化する。




  

2008年1月22日 (火)

分別心を無くす


   
 毎日、何らかの形で人と出逢っていると思わぬ気づきがある。
 
その気づきは今までのすべての思考を払拭するような強烈なインパクトがある。
 

私はW先生から 「分別心を無くしなさい」 「自分でジャッジしないこと」 を以前教えて頂いていた。

 
だがどうしても自分の考えを基本として 「いい」、「悪い」、「正しい」、「間違っている」 を決めていた。

 
そして生意気にも絶対的な自信を持っていた。
 

あるときは、
 
 「一般の常識なんて関係ない、自分の考えが正しいんだ」
 

そして、あるときは

「それおかしいんじゃないか?一般の常識からは外れてる」
 と・・・
 

自分のなかにある常識を基準にその時、その時で使い分けていた。
 

「お父さんこの間は常識なんて関係ないって言ってたじゃないか、だけど今は常識から外れてるってわけがわからないよ」 と突っ込まれたりしていた。
 
 
そんなことを言われてもまだ自分でジャッジしていた。
 

昨日、毎日のように立ち寄るコンビニで、よく世間話をする若いアルバイトの店員さんに声をかけた。
 
 
「今年高校を卒業したばかりのプロの選手になった●●君が、月のお小遣いが30万円だって、まだ18歳なのにそんなにもらったら金銭感覚がおかしくなるよね、一般の常識から外れてるよな、お金は親が管理して常識的な金額をやらなきゃね」

 
ところがその店員さんは
 
「そうですかね、僕はいいと思いますよ。だってその契約金や年棒は自分の力で稼いだのでしょう、それでおかしくなったら自分の責任でいいんじゃないですか?」
 
 
うーんなるほど何も言えなかった。
 
そのときジャッジをして、いい、悪いを分別している自分がいた。
 
グーの音も出ない自分がいた。
 

そうか、いいも悪いもないんだ。
 
自分が正しいも人が間違っているもないんだ。
 
分別するのは違うんだ。

分別をすると心がわかれてしまう。
 
 
私たちがつい感情的になってしまう時はたいがい分別している、ジャッジしているからだ。

ジャッジしなかったらどんなに楽だろう。
 
空気のようにただ漂っていたら、どんなに心が平安だろう。
 
風のように身を任せているだけでいいんだ。
 
何も余計なことを想わなければいいんだ。
 
そう思うと気持ちがすごく楽になってきた、肩の力が抜けてきた・・・
 
そんなスッキリした気持ちになれた1日でした。



  

  

2008年1月21日 (月)

続々・如是我聞 6

 
  
一番大事なことは、心が純真で、無邪気であるということです。


解釈
 

子どもがかわいいのは何も考えていなくて素直で屈託がなく、いつも心をサラサラさせているから。
 
子どもを見るといいなぁとつい見とれてしまいます。
 
大人の人でも今流行りの 「空気を読む」 というような気にし過ぎるというようなことをせず、おおらかにサッパリとして生きている人がいるとやはりつい見とれてしまいます。

余計なことには鈍感でいいのです。

大人はついどうでもいいことを考えてしまう、そしてイライラしたり、怒ったり・・・

 
キリストは言いました。


幼子のようになりなさい  そうですね。


幼子のようにいつも、無邪気でありたい・・・




  

2008年1月20日 (日)

続々・如是我聞 5

  
    
人間この世に生きるのは、どれだけ無私になれるか、どれだけスッキリしているか、つまり空(くう)になる練習にある。

自分がないということが一番尊いことだし、一番楽だ。


 

解釈
 


実はこの空(くう)になることが一番難しいことであり、説明のしようがないのです。
 
それは空の奥にはまた空があるから・・・
 
空(そら)は有限ではなく無限に続いている。
 
それと同じように人間も無限に進化し無限に成長していくものなのです。
 
ここでもういいということがないのです。
 
だからここに書いてある通りなのです。




    

続々・如是我聞 4

   

人間、いい年令になったならば、地位や名誉や財産や名声などにまつわる、もろもろの汚れをとり去ることである。

地位も名誉もない、一介の老婆のほうが、地位もあり名誉もある人より魂のレベルとして、上位の場合がある。



 

解釈

 


人間、死んでしまったら、それこそ裸いっかん心、魂しかない。
 

欲深い人に 「死んだら墓場にはお金を持っていけないよ」 というがお金だけでなく地位も名誉も目に見えるものはすべて捨てていかなければならない。

 
いらないものを削ぎ落として、すっきりとした心であることが一番大切なんだ。
 

生きている期間よりも死んでからのほうがずっと長いんだ。

 
心は永遠に生き続ける。




 

続々・如是我聞 3

  
  
人の言葉に動かされてはいけない。
 
サラサラサラサラと生きてゆくことが大切。




解釈
 


このサラサラが4回もつづくところに意味があるように思います(笑)
 
人の言葉に対してイライラしたり怒ったり、褒められて有頂天になったり、喜怒哀楽が激しくなると反対にエネルギーが動かなくなるのです。
 

生命(いのち)が活き活きと流れなくなるのです。
 

 
生命は川の流れのようにサラサラサラサラと流れているものなのです。




   

続々・如是我聞 2

 
   
目の前の小さなソロバンをはじくな。
 
大きな永遠の目でもってはじけ。

 


解釈

 


人生がたった60年や長くて100年ですべてが終わってしまうのなら要領よく世渡りをして損得で判断して、悪いこともして、面白おかしく暮らして行けばいい。

だが肉体は無くなっても心、魂は永遠に生き続けるのだ。
 
だから今の行いはすべて未来、来世に繋がっていく、今を正しく、現在を素直に正直に生きていかないと必ずつけがまわってくる。
 
 
昔、おばあちゃんに言われたことがある。

 

「人が見ていなくてもお天道様がみているよ」





  






  

続々・如是我聞 1

 
 
如是我聞もラストの3に入っていきます。
3になるから難しくなるのではなく、気持ちをスッキリさせていれば心に響いてきます。
これからもよろしくお付き合いください。

 

正真正銘の自分を見きわめること。そうすれば人にほめられて有頂天になることもなければ、人にけなされてくさることもない。そんなことは一切関係なくなる。


解釈
 

正真正銘の自分を見きわめること。
 
人のことがわかるより自分を識ることのほうがずっと難しいのです。
 
人生って、ちょっと大げさですが、自分探しの旅なのかもしれませんね♪




  
  

2008年1月19日 (土)

続・如是我聞 40

  
ほめられても素直にうれしがらない人がいる。生悟りの人だと思う。
 
ほめられれば嬉しい。これはこの世のならいである。
 
ほめられた時素直によろこんび、けなされたり罵倒された時、心が一つも動揺しない、という人になってもらいたいものだ。


 


解釈
 


一喜一憂(いっきいちゆう) という言葉があるが一昔前は人前で歯をみせるな!(かなり古いかな?)
 
と言われ、簡単に感情を表に現わすな!とも言われた。
 
私もうれしいのを押し殺して我慢することがありましたが・・・そうですよね、うれしいときは素直に喜んだらいいんですよね♪

 
喜んでいるときには自分からプラスのエネルギー、幸せのエネルギーがあふれ出て人を楽しくさせるのだと思います。
 

でも、けなされたり罵倒されて怒りの気持ちでいっぱいになったらそれは周りを暗くさせるマイナスのエネルギーを発しているのだと思います。

 
私の人としての目標は 不動心になる でした。

 
何があっても落ち着いて動揺しない心、それが私の一番の目標です。





  

2008年1月18日 (金)

今日わかったこと

  
人はそれぞれ考えかたが違う。
 
私はそれが不思議でしょうがなかった。
 

何でそんなことを気にするかな?
何でそんなに怒るのかな?
何でそんな言い方をするのかな?
何でそんなことを思うのかな?
 

お釈迦様ではないけれどそんなことで振り回されては自分の身が持たない。

今日わかったこと、それは人はどこに意識があるか?ということ
 

Aさんは自分の考えよりも周りの人、影響力のある人(例えば上司)がどう思うかを気にしている。
 
Bさんは目先のことよりも先のこと、大きな目でみることを意識している。
 
Cさんは自分の考えだけが絶対だと思っている。
 
 
つまり、ものを見る判断する物差しが違うのだ。
 
近くから見るもの、少し離れてはいるが人の目から見えるもの、客観的にグローバルな目で見るもの、優しい目でみるもの、厳しい目でみるもの・・・

同じものを見ていてもその景色は全く違う。
 
みんな自分が見ている景色が正しいと思っている。
 
違うものを見ていてお互いに自分の考えをわかってもらおうとする。

そんなこと無理だ、自分の考えは人には通用しないんだ。

 
だったらどうしたらいい?
 
それは相手の見方、景色を認めてあげること
 
自分にも自分なりの景色(世界)があるように、その人にもその人の世界がある。
 

相手の世界を認め合ったときふたつの世界がひとつになる。








  

釈尊(しゃくそん)って誰?

  

地球よりずっと進化した星、金星から天下ってきたお釈迦様(釈尊)は地球人をみてさぞかし不思議で不可解だったと思う。
 
なぜ人どうし、そんなにいがみ合うのか?なぜそんな風に解釈するのか?なぜ、損得ばかりを気にするのか?????だったに違いない。
 
そんなお釈迦様が一番苦労されたのが人間関係だったと思う。
 
弟子や民衆、家族に対して一筋縄ではいかなかったに違いない。
 
私は人間関係で疲れたとき、自分の気持ちが間違って人に伝わって非難され、嫌な気持ちになったとき、時々想い出す釈尊の言葉がある。
  
これを読むとホッとして元気が出てくる。
 




「沈黙しているのも非難され、多くを語るのも非難され、少しを語るのも非難される。世に非難されない者はいない」



この世に生ある限り、何をしても人は非難の目、嫉妬の目をもって他人を見つづけるのである。
人の目を気にして生きていたならば、自分の身が持たない。天の目を気にして生きてゆくことだ。 (西園寺昌美)








   







  

2008年1月17日 (木)

前世について

  
前世についてわかりやすい例え?を思いついたのでお話してみようと思います。
 
今、私は山に来ていて反対側の山に向かって 「おーい」 と大声で叫びます。
 
声は山に反射されて数秒後に 「おーい」 という同じ言葉で帰ってくる。
 
今発した声は過去のものとなるが、こだました声は未来からやってくる。
 
つまり過去のことが現在に写ってくるのです。
 
仏教で、この世のことをあの世からの写し世というのはそう言うことです。
 
つまり過去の想念や行為がそのまま現在に顕れてくるのです。
 
「おーい」 という声はこだまであれば数秒後ですが100年とか1000年後の忘れた頃に声が写ってくると考えたらいいでしょう。
 
そして当然、山に向かって叫んだことは前世のことなので覚えていないのです(笑)
 

ついこの間、会社で 
過去、現在、未来 を感じさせる出来事がありました。

取引先なのですが老舗(しにせ)で誰でもが知っている有名な食品会社メーカーです。
 
先代は真面目な人で一生懸命に働き、一代で立派な企業にしました。
 
ところが今は管理体制が不安定で品物の送り間違え、欠品、その他の事務的なミスも多く信頼が薄れてきています。
 
ただ、今までの功績があるので仕入側であっても強くクレームが言えないのです。
 
この食品メーカーが今の体制をずっと続けていくと功績の貯金を使い果たして未来はダメになってしまいます。


 

現在は過去の功績が写ってきている(過去の結果が現在)

そして。現在の原因が未来に繋がっていくのです。
 

前世(過去)がなければ現在はない、わかって頂けましたか?

 
その法則から言えば現在善いことが現われている人は現在の努力とかの結果ではなく、過去世に積んだ徳のお陰なのです。(そしてその徳も今、積まなければいずれ無くなる)

 
そして今、よくない運命が現われている人は今のあなたが悪いのではないのです。
 


私の師匠のう先生は


過去の結果が現在、未来の原因が現在。今を大切に、現在が大事。

一瞬一瞬を光明思想で明るく、笑顔で、優しい言葉で、礼儀正しく、謙虚で、思いやりを。


と教えてくださいました。

過去はもうふりかえらなくていい、今を大切にすれば未来は必ず善くなっていく。
 
ただし、真理がわかっていないと今がよくない人はなんで自分は努力しているのに報われないんだと自暴自棄になりますよね。

 
だから、今の状況をキチンと把握した上で現在を大事にしていけばよいと思うのです。
 

今を識る上で過去世(前世)は大切です。


そして今のあなたがあるのは過去世(前世)のお陰なのです。






 

宗教とは?

  

宗教は世界中にどれくらいあるのでしょうか?
 
そして本物の宗教と偽物の宗教とは?
 
今日は宗教とは何ぞや?を私がわかる範囲で述べていきます。
 
興味のある人は読んでみてください。


 

宗教とは実は宇宙のことを言っているのです。
 
宗教の宗は宇宙を示すこと、その教えという意味だそうです。
 
お釈迦様は仏教の教祖ですが、悟りを開いたのは菩提樹の樹の下で座禅を組んでいるときでした。

何を悟ったかというと明けの明星(金星)を見ていて、自分が過去世において金星にいたことを突如想い出したのです。

金星は地球よりもずっと進化した星で文明だけでなく意識が高い、心が愛、平和で調和のとれている意識レベルの高い星なのです。
 
そして想い出しただけでなく生まれ故郷である金星に意識(心)を合わせると金星での考えがそのまま入ってきた。
 
身体は地球上に居ても意識はとてつもなく高くなったのです。

そして自分が何の為に地球に天下ってきたのかも知ったのです。
 
それは金星での高い意識を意識の低い地球に広めて人類を救っていくということ・・・
 
お釈迦様は弟子にその金星での教えを伝えていったのです。

その教えを伝えるには肉体の頭で理解しようとしてもわかるはずはない。

肉体の意識を超えて気持ちを沈めて、心の奥深く入っていく、宇宙は心の奥に繋がってある。

そのために座禅を組んで 「空」 になることを教えた。

「空」 とは頭を空っぽにして宇宙と一体になること
 
宇宙と繋がることは人間の故郷に戻る、帰ることをいう。

 
肉体の親は両親だが心の親は宇宙にある。
 
宇宙と繋がって、初めて本当の安心、不動心、幸せになれる。

そのためには肉体意識を超えて  になり、宇宙意識にならなければならない。
 
そのことを弟子に伝えた。

般若心経はお釈迦様が一番弟子の舎利ほつに教えた高い高い教えであり、そのほかの弟子には理解できなかった。

宇宙意識になって初めて理解できる内容であった。
 
だから今、地球上にいるお坊さんで般若心教を真に理解できている人はほとんどいないと思う。
 
仏教はインドで生まれ、お釈迦様の死後、中国、日本にも入ってきたが、伝わっていくうちに宇宙意識から欲望の強い肉体意識に変化していき、現在の宗教となった。

そして完全に肉体意識になって争いが起こり、宗教戦争になった。
 
水は山から河を流れ、海にいくまでに汚れていく。
 
純粋なものから不浄なものへと変っていく。
 
キリストが幼子のようになりなさい、老子が無為に為せと言ったのはお釈迦様の 「空」 と同じで宇宙の原点に帰りなさい、繋がりなさいという意味だったのです。

宗教の宗(もと)は伝え方は違っても同じことを教えている。
  
人間が安心立命して本当に幸せになるには心の親である宇宙と繋がることしかないのです。

それを教えてくれるのが本当の宗教であり、心が安心しない宗教は偽りの宗教なのです。
 
ただ、宇宙観はうたっていなくてもほっとする、そして安心するものであればその人にとっては良い宗教なのだからそれにこだわることはないと思います。


宗教とは? を書くのは非常に難しく、結構苦戦しました。



少しわかりづらかったと思いますが、最後まで読んで頂きありがとうございました。



   

 

2008年1月16日 (水)

続・如是我聞 39

  
    
霊的な人にはつねに注意をはらえ。
 


  

解釈
 



人間は肉体界だけでなく、幽界、霊界、神界とも同時に生きていると以前書いたことがある。
 
目立ちたい、人からすごいと思われたい、尊敬されたい、霊力がほしいと思っていると幽界の低級な動物霊が共鳴して憑依してくる。
 

つまりとりつかれるのだ。
 

肉体界は顕在意識の世界、幽界は潜在意識の世界で幽界で潜在的にあるものが肉体界に顕れてくる。

 
だから幽界の化け物は肉体界に起こることを予言できる。

 
それを見て、聴いた人が神さまだと思い込み挙げたてまつる。
 

霊的なものがどこから来ているのか?
 

化け物の世界からか?本当の神様な世界からか?

 
これから色んな霊的な人が街中やテレビとかに出てきます。

 
その人に騙されたり、惑わされる人もたくさん出てきます。
 

邪(よこしま)な、低級な霊が油断していると襲ってきます。

 
どうしたら惑わされないか?

 
それはつねに守護霊に感謝をして守ってもらうこと
 
そしてスッキリしない、気持ちが悪くなったら偽物だと思うこと

 
守護霊が気分を悪くさせて知らせてくれているのです。
 

でも一番いい方法は霊的な人には近づかないことです。



  
 
  

続・如是我聞 38

  

調和とは自分がなくなることである。

 

解釈
 

一般的に、若いときは自分があったほうがいいという、小さいときは我儘(わがまま)なくらいがいいという。
 

そうだろうか?
 

自分を出そうとすると目にみえない偉大な力がわからなくなる。
 
 
謙虚でないと愛が感じにくくなる。
 
 
自分があると、認めてくれないと腹が立ったり、人を責めて感情的になる。
 
 
壁を作っては心と心が一つにならない。
 

愛とは自分の心が色んなものと とけ合う ことをいう。
 

自分がなくなって、とけ合って、そこから愛や調和は生まれる。





  

続・如是我聞 37

  
ノイローゼ気味の青年へのアドバイス
 
「自分を見せようとするな。見せようとするから苦しいのだ。真裸の自分をさらけ出してしまいなさい。オレはこれだけの者と勇気を持って認めることだ。それだけでずい分楽になるだろう」

 

解釈
 


自分をさらけ出すことは簡単なようでなかなかできることではない。
 
 

でも、苦しさから抜け出すのは人がしてくれるのではない。
 

 
自分をさらけ出すのを誰も手伝ってはくれない。
 
 
自分が勇気をもってやらないと誰も助けてくれない。
 
 
勇気を出すには どう思われてもいい とさらけ出すしかない。
 

さらけ出すとすごいエネルギーが流れてきて素晴らしい力が内からみなぎってくる。



 
  
 

2008年1月15日 (火)

続・如是我聞 36

 
  
目に見えない存在者の力は大きい。
 
それを知っていなければ大きい仕事はできない。

 

解釈
 

目に見えない存在者?それは守護霊?神?宇宙は99.999999999・・・・・% 目にはみえないもの(波動)でできています。

 
見えるものも実はみえないものが集まってできているんだ。

 
みえないものを言葉や文章にすればするほど説明すればするほど真実から離れていく。
 

みえないものとはそういうものです。
 

自分で感じ取る、いや心でわかることなのです。

 
時期が来れば波動でわからせてもらえる、心で魂でわかるようになる。
 

そうなって初めて、自分がわかる・・・




  

続・如是我聞 35

 
  
人間は170cmなどという小さい体ではない。人間は肉体とは違った波動圏の体をもっている。それは幽体であり、霊体であり、神体である。無限に大きい体を持っているのである。
しかしそれを多くの人は知らない。
 
守護霊さんに守られているのだ。と認識し、守護霊さんに常に感謝して想いを向けている程度に応じて、その人の波動圏は大きくなるのである。




解釈


人間は肉体界だけに生きているのではなく、幽界、霊界、神界にも同時に生きているのです。
 
寝ている時は、実は色んな世界へ行っているんだそうです♪
 

そして死んだらまず幽界へいく、それからその人の心境、意識をしている程度(悟っている段階)に応じて霊界や神界(天国)へ行くこともあるのです。
 
 
守護霊さん守護神さんは自分の先祖で、悟ったおじいさんおばあさんであり霊界や神界から孫である人間を守ってくれているのです。

 
人間にはすぐ先のこともわからない、今、この飛行機に乗っていいのか、いけないのかもわからない。
 
守護霊さんは未来の出来事がわかるのでしきりにメッセージを送ってくる。
 

これが直観、インスピレーションと言われているものなのです。
 

自分が勝手に気付いているのではないのです。
 
そのことを識って、いつも守護霊さんに 「ありがとうございます」 と感謝していると非常に守られやすくなる。
 
すると、神界や霊界からのエネルギーがたくさん流れてくる。
 
これがあなたの波動圏になるのです。


   

2008年1月14日 (月)

続・如是我聞 34

 
  
病気と寿命とは違う。
 
人間は病気で死ぬのではなく、寿命で死ぬのである。


 


解釈

 


子どもが親に 「人間は死んだらどうなるの?人間はどこから生まれてきたの?人間は何のために生きているの?」 と質問されてちゃんと応えられる人がどれだけいるだろう?と素朴に疑問に思う。

 
人間は死を完全に理解しないことには本当に幸せにはなれないと思う。
 
 
病気になったら死を想い、人が死んでも今度は自分の番か?と不安になり、そんなにビクビク暮していて楽しいはずがない。

 
今は本当のことをいくらでも知ることが出来る。

 
求めれば必ず答えが出てくる。
 

いつまでもわからないままでいいのだろうか?





  
 
  

続・如是我聞 33

 
   
非凡になろうとするからいけない。
  
平凡に極まればいいのだ。

 


解釈


“末は博士か大臣か” 博士や大臣になること、出世すること、社会的な地位を得ることが偉い、幸せになることと思っている人はたいへんだなぁと変な同情?をしてしまう。

 
本当の幸せとは外にあるのではなく、自分の内面が成長していくこと立派になっていくことにあると思う。

 
それを外に求めると内からどんどん離れていってしまう。
 
 
宇宙は自分の中にある。

  
答えは自分の中にある。

 
幸せは自分のなかにある・・・







  

続・如是我聞 32

   
  
『本当の美人というのは、そばに別の美人がきて、人がいくらほめようと、ちっとも気にしない人。中美人というのは、たえず競争心をもっていて、他の人と自分をくらべ、他の人が美人と言われると張り合う』

それと同じように、本当に偉い人はスーッと澄んでいる。

あいつより俺のほうが・・・・・とくらべているようでは、まだまだ本ものではないね。


 

解釈


  

若い女の人で化粧をしまくって、髪を染めている人がいる。
  
 
素がきれいなのに、黒髪で素顔のままで充分輝いているのにといつも思ってしまう。
 
 
ビリージョエルの歌で 
素顔のままで♪ があるけど私の大好きな歌です。
 

人はそのままが美しいのにいらないもの、本心を曇らせるものばかりを心と身体に身につけようとする。
 

本当はそれをはぎ取ってシンプルにならないといけないのに、削ぎ落としてスッキリしていかないと重たくなってしんどくなるのに・・・
 
 
でも街で時々見かけます。

 
素顔のままでスッキリ爽やかに輝いている人を・・・

 
そんな人は周りの人をいつの間にか幸せな気持ちにしてくれます♪






素顔のままでビリージョエル、オネスティもいい歌ですよ♪


http://www.youtube.com/watch?v=-jhFs0GHmBs







  
    





 
  

2008年1月13日 (日)

続・如是我聞 31

   

人間に純粋なところがなければいけない。
いかなる組織の中においても、純粋なるものを持っている人は伸びる。



 

解釈
 

 

純粋、ピュア、聴いているだけで爽やかになって、心が洗われるようです。
 

純粋な人は透明感があるので非常にわかりやすい、だから人から好かれる、信用される、嘘がないから安心される。
 
企業も人も最初はだませても、嘘や誤魔化しがあると安心して長く付き合っていくことはできない。
 

結局最後には、正しい人、正直な人、純粋な人が残るのです。

 
そして純粋な人はどんな色にも染まるので途中で汚れることもあるけど、浄化する力を持っているので、どこまでも強くなりながら伸びていくことができるのです。





  

続・如是我聞 30

 
  
本ものというのは、文章や言葉ではない。
 
その人自身が問題なのである。




 
解釈


これこそ解釈の必要なしの文章です。

厳しいけどそのものズバリ、思わず身が引き締まりますよね。







   

続・如是我聞 29

  
   
一見、いい人そうに見え、おとなしそうに見えて、したいこともしない、やりたいと思うけれど出来ない、と悶々として自分を自分の想いでつつんでいる人は、その想い重みで下に落ちてしまう。
だから、人間は心がつねにサバサバしていることが大切だ。



  

解釈

 

この文章を解釈すると意味を履き違えて取る人が半分以上おられると思う。
 
だから解釈はやめておきます。
 
文章や言葉は確かにエネルギーを持っているけど正確には伝わりにくいのです。
 
それは、文面や文章の内容、言葉じりに意識がいって、一番大切な響き、エネルギーが届きにくくなるから・・・
 
みなさんもメールとかで相手の人に全然違う解釈をされて誤解された経験があると思います。
 
私はメールは連絡事項くらいにして感情を入れるべきでないと思っています。

 
話が横に逸れましたが、思いを変換していくと重い、想いが出てきます。
 
思いは重いのです。
 
思うと自分も相手も周りの人たちも気を重くしてしまう、息苦しくなるのです。

 
「思わないでどうやって生活していけるんだ」 と思いますよね(笑)
 
ところがそれが出来るのです。
 
頭で考えて、思ったり、言ったりするのではなく、心で考えて、思って、言うのです。
 
これから先、人間はそれをするようになる。
 
それがテレパシーで交信するということなのです。

テレパシーで交信するようになればメールも電話も相手と話すことも必要なくなる。


この文章もたぶん、100%正確には伝わっていかないと思います(笑)








  

2008年1月12日 (土)

続・如是我聞 28


  
平凡で強い人、よごれた世の中に入っていても悪によごれない人、そういう人をつくりたい。




解釈

 


神さまは人類の進化や発展に貢献する人を求めているのではないのです。
 
人から尊敬、称賛される人を生み出したいとされているのではないのです。
 
神さまは今の汚れまくった世の中において、あの蓮の花のように、泥の中でもきれいに輝くて咲く、そんな人を求めていらっしゃるのです。
 

世紀末にキリストが再来してこの世が救われると言われているのは、浄まった人がたくさん現われて地球が浄化されることを言っているのです。

 
そのためには3次元的にすごい人なんて必要ない、人気があるとかカリスマ性があるとかはどうでもいい。

 
普通に生活していて強い人、ピュアな人、素直な人、愛に溢れている人、宇宙からのエネルギーをそのまま地上に降ろせる人・・・
  

そんな人が本当に尊い人なのです。


 




  

続・如是我聞 27

  
    
結婚生活とはつくしあう生活である。

 


解釈

 


私は結婚してから21年になります。
 
最近つくづく思うのは、夫婦というのは我慢比べをしているのかなぁ・・・なのです(笑)

 
友達であったなら喧嘩をしたら会わなければいい、仕事場での人間関係だったら仕事だと割り切ればなんとかなる、逃げ道がある。

 
だが夫婦は離婚しないのだったら逃れることは出来ない。

 
別居は離婚と同じであり、逃げずに毎日顔を合わすのは修羅場以外の何ものでもない。

 
誰だか結婚は修行だと言っていた。

 
W先生は 
「家はくつろぐ場所ではありません」 とおっしゃった。

 
結婚を修行、修羅場ととらえるのは辛過ぎる。
  
 
だったらいっそのこと、開き直ってつくしあったらどうだろう?

 
修羅場とつくしあう場、案外似ているのかもしれない(笑)






  

続・如是我聞 26

 
    
悪のうずまく時代においては、お説教や言葉でいくらいいことをいっていても、相手は変わらない。
それよりまず自分が浄まって、その光をふりまくことである。
その光にふれて人は変わってゆく。

 

解釈

 


よく、「人を変えることは出来ない、自分が変われば人は変わる」 と言われるが、自分が変わっても人が変わるか?と疑問に思うことがある。

 
「この人はちょっとやそっとでは変わらないよ」 とか 「人は人、自分は自分、だから関係ないよ」 と冷めた目で客観的に分析をしたりする。
 
 
自分のことを肉体だけが自分であると思っていては確かにその力や影響力はたかが知れている。

絶対に不可能だと思っていい。

 
だが人間は霊が主で肉体が従なのだ。
 
人間の本体は霊体であり、霊体というのは心というエネルギー体で出来ているのです。
 
そして、人と人の心は空のように繋がっている。

別々に分かれているように見えるが大元は繋がっているのだ。
 
感動するとは人と人の心が一つに溶け合うことをいう。
 
愛とは心と心が合うことをいう。
  
奇跡とは感動や愛の現象をいう。
 
 
心は光で出来ている。
 

自分が変わって光輝くと相手の人もその光にふれて変わっていく。





  

続・如是我聞 25

       

自分の意見を通そうとするな。
 
通らない場合、ついイライラと心が乱れてしまう。
 
まず人の意見を受け入れるようになろう。
 
受け入れれば受け入れるほど、その人は大きくなる。



 

解釈
  

自分が相手の言い分を納得していない時、そして自分の意見がわかってもらえない時、イライラは最高潮に達する。
 
 
そして感情的になって、声が大きくなってきたときには、もう完全に平常心では無くなっている、相手の意見を受け入れるような状態でない。

 
相手のことを受け入れるのは相手の意見が理解出来てから、納得してからだと思っていたが、それをした後からでは人の心を受け入れられるようにはならない。

  
相手は相手で自分が正しいと思っている、その人にはその人なりの考え方がある。

 
どちらが正しく、どちらが間違っているもない。

 
だから、大きな包容力で包んであげよう、納得できなかったとしても受け入れる心を持とう。

 
受け入れると気持ちがどっしり安定してくる。
  

そして相手の人も安心して心を開いてくる。






  

続・如是我聞 24

  
   
正しいことを認識できる頭をいい頭という。学校の成績がよいだけでは、いい頭とはいえない。


  

解釈


  
いくらいい大学を出ていたとしても社会的な常識や人としての優しさがなければ宝の持ち腐れだと思う。
 

よい子悪い子の判断基準として、偏差値が高い子を頭の良い子、そして頭の良い子が人としても良い人と言われるような風潮がまだ残っている。

 
確かに他の子どもが遊んでいるなか、ある時期勉強に一生懸命集中して、成績という結果を出すことは褒めてあげたり、自信をつけさすことにおいてはよいと思うが、過大な評価は本人を誤解させてしまう。

 
勉強さえ出来ればあとのことは大目に見てもらえる、優遇してもらえると思わせるのは周りの大人の責任である。

 
人として、当たり前のことがきちんと出来る、自分のことは自分でする、人に迷惑をかけない、それらが基礎となって、はじめて色んな才能が生きてくる。






   

2008年1月10日 (木)

続・如是我聞 23

 
  
何事にも把われないこと、把われたらその分だけ心が不自由になる。


  


解釈 
  
 

人は肉体を持っている以上、必ず何かに把われている。
 
家族、恋人、職場の人間関係、学歴、仕事、お金、物、健康、病気、etc・・・気になることがあるとそこから心が離れず気持ちが晴れない。

 
この把われはやっかいなもので、気持ちの整理がついてもう無くなったと思っても、今度は又、違う把われが心を覆ってくる。
 
把われとは本心を覆い隠す雲のようなものである。
 
いつも気持ちをスッキリ爽やかにしていようと思ったら本心を輝かせていなければならない。
 
 
把われが少なくなればなるほど心が自由になる。





  

はじめに言葉(ことば)あり、

 
聖書の一節にはじめに言(ことば)あり、 “言は即ち神なりき” というくだりがあります。
 
まさしくその通りで、言葉は生きています。
 
一言発したその言葉は、素晴らしいエネルギーとなり、永遠にその力を失うことなく、世界をかけめぐります。
 
善きにつけ悪しきにつけ、言葉の威力は偉大なものです。
 
ですから私たちは心の中に、常に光の言葉を植えつづけていかなければならないのです。
 
一言発するとしても、善き言葉、素晴らしき言葉、光明をふりまく言葉を慎重に吟味し、選んでこの世に放たねばならないのです。
 
そうすれば、その言葉を受けた人は、励まされ、たとえ不幸の最中(さなか)にあったとしても、その言葉を受けて明るさを取り戻し、光り輝く人生を開いてゆけるのです。




解釈

 


この通りなので解釈する必要はないのですが、言と言葉の違いだけ述べたいと思います。
 
 
言は本心と直結した心から出たことば、言葉は本心からではなく、人の影響や感情を受けてしまった枝葉のことばなのです。
 

人と話ていても計算した損得で考えて出たことばは、相手を不快な気持ちにさせます。
 

反対に純粋な真心から発したことばは光を放っているかのように輝いています。
 

そして人を幸せにします。
 

私たちは思い遣りのある美しい言(ことば)を使っていきたいですね。







 

2008年1月 9日 (水)

続・如是我聞 22

 
  
人の悪癖を治してあげようと小言をいうのは愛。自分の感情でいうと人を責めることになる。



解釈
 


小言(こごと)が悪いのではない、小言を感情で言ってしまうから反感をかうのだ、反発するんだ。
 

小言は特に子どもに言うことが多い、子どもは嫌がり、反発する。
 

言ってはいけないのか?言わなかった方がよかったのか?

 
自分に自問自答するのもいいけど、どうしても言わなければいけないと判断したなら言っちゃいましょう。

 
ただし、感情で言わないこと、叱らないこと・・・

 
それさえ気をつければきっとわかってくれますよね。

 
お父さん、おかあさん・・・・



  
  
  

続・如是我聞 21

  

神さまは成功、失敗を問題にするのではない、その器がいかに一生懸命やるかやらないかを問われるのである。


 
解釈

 


結果がすべてという人がいる、いやプロセスが大切なんだという人がいる。

 
どちらもそうかなぁ?なんか違うなぁと思っていた・・・

 
続・如是我聞の本をパッと開いたら上の文章が飛び込んできた。

 
うれしくて涙が出そうになった、心が温かくなった。

 
そうなんだ、一生懸命することが一番尊いことなんだ。

 
わたくし事ですが、今、一生懸命受験勉強をしている息子に伝えたい。





  

続・如是我聞 20

  
  
汚れた人が千人集まっても一人の浄った人の救済力にはかなわない。



 
解釈

 


浄った人、悟った人がいると九族救われるとも言われているそうだ。
 
九族とは自分の祖先、九代のことだ。
 
それだけ浄った人の存在は尊い。
 
今の地球は目覚め始める一番最初のところにあって、業(ごう)やカルマが極限状態、一番ひどい、汚れた状況にある。

 
ほとんどの人が自分を見失って、地に足が着いていない。
 

夢遊病者のように生きている。

 
そんなとき、浄った人の存在は多くの人を目覚めさせる。

 
たくさんの浄った人が現れることで地球が救われ、人類が救われる。






   

続・如是我聞 19


   
自分は一つも悪いことはしていない、しかし人に叱られたり、何かいわれたら、前生に何か悪いこと、間違ったことをしたんだろう、私が悪かった、とサバサバとあやまることだ。
何かいわれたら、悪いのは私なんだ、と思ってあやまってしまうことだよ。そうすれば喧嘩になりません。
自分は悪くない、正しい、なんて思っているとお互いにぶつかりあって、喧嘩、争いということになる。夫と妻との間でも同じだ。

 


 
解釈
 


喧嘩まではいかなくても何かを言われて腹が立ったとき、つい相手と自分の非の比率を考えてしまう。
 
自分も少し悪いが相手はもっと悪いとか、何でそこまで言われないといけないのか?とか、自分はほとんど非がないのにどうしてそんなに非難されるのか?同じことをしてもなぜ?自分ばかりが責められるのか?・・・
 
 
日常生活は相手を非難することがあまりにも多い。
  
 
ストレスの多くはここから来るのではないだろうか?
 

真理を識ることがなぜ必要なのか?W先生は私に 「真理の勉強が足りません、真理をもっと学びなさい」 とおっしゃいました。

  
それは、真理、ほんとうのことがわからないと真に幸せにはなれないから・・・

 
前生、前世があることを識らなければ人をずっと恨み続けることになる。

 
恨みは一生続き、死んだ後も苦しみ続ける。

 
真理を識った人は何かがあってもサラリと流すことが出来る、いつまでもこだわったり、とらわれたりしない。

 
私は腹が立ったとき、この文を想い出そうと思う。
 
 
そして、出来るだけ早く、気持ちの切り替えをしていきたい。






   

2008年1月 8日 (火)

続・如是我聞 18

 
 
今の運命、今の不幸、今の貧乏、病気というのは、過去の影絵である。
 
実体のないものであるから、じたばたせず、内なる真実なる自分の中に入り、自己の光をますように努めることだ。
 
その方法は、守護霊さん守護神さんお願いしますと、ひたすら守護の神霊に自分の運命をまかせてしまうことです。
 
守護の神霊は自分を幸せにしようしようとされているのだから、つねに守護の神霊に波長を合わせておくことです。




 
解釈
 


実はこの文章は般若心経に出てくる一番有名なくだり、色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき) を言っている。

 
正直に言うとこの内容は難しいので掲載するのを止めようと思ったのです。

私も今ひとつわかっていないのです。

しかし、非常に大切な真実が書かれているのがわかるのです。
 
わかっている範囲で私なりに解釈してみようと思います。
 

 
今の運命、今の不幸、今の貧乏、病気というのは、過去の影絵である。実体のないものであるから は、色即是空に当てはまる。

色つまり物や人はどんなものでもいつかは消えて無くなっていく、空になっていく。



内なる真実なる自分の中に入り、自己の光をますように努めることだ は自分の本体の中に入って心を空にすると本来の光輝いた自分が現れてくる。

 
だから色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)の色は全然違うものなのです。
 
最初の色は消えていくもの、最後の色は永遠に消えないもの。


永遠に消えないものとは心、愛の心だと私は思っています。


宇宙は愛で創造されている。

 
今現れているものは全て消えていく、過去のものなのです。





 
     




 

続・如是我聞 17

  
  
 
昔からいわれていることだけど、謙虚というのが一番いい。


 


解釈
 

謙虚と自分を卑下するのは全然違う、卑下(ひげ)は自分を見下げた行為、人と比べて自分はダメなんだと認めてしまう。
 
だから自分を過剰に意識している。
 
一方、謙虚は自分のことを識り、認めた上で自分を出そうとしない行為である。
 
自分を意識していない。
 
自分を出そうとすると押し付けがましい重いエネルギーが流れてくる。

 
自分を出さずに謙虚でいるとフワッとした温かい爽やかなエネルギーが流れてくる。

 
ほんとうに偉い人は自分を出そうとしない。





  

続・如是我聞 16

 
 
人の悪口をいうということは、自分を強く見せたい、自分をよく見せたいからである。羨望の想いが悪口となる。

 

解釈

 

悪口を言う人は一昔前に比べて減ってきたのでは?と思うのは気のせいだろうか?

 
言ってしまった後のバツの悪さ、同調してしまったときの情けなさはひどいものだ。

 
今時、人の悪口を言っている人で評価されている人はいないだろう。

 
今は人を見る観察力が増してきている。
 

悪口を言う人は信用されない。

 
ただ、愚痴を言う人が増えたように思う。

 
愚痴は悪口と違い相手を攻撃するのではないので敵は作らない。

 
相手の心は痛めないが、しかし自分の心を痛める。

 
そして、やはり相手を不快な気持ちにさせる。

 
言葉はエネルギーになる。

 
言葉は言霊(ことだま)と言われ、霊力が備わっていると言われてきた。

 
悪口も愚痴もマイナスのエネルギーを放っている。

 
自分は今、どんなエネルギーを発しているんだろう?とチェックすることは大事なことだと思う。



 

気功 教室 大阪

 
私はめったに宣伝はしないのですが久々にさせてください(笑)
 
私が今、一生懸命に取り組んでいるのは調和波動気功法というものです。
 
目に見えるものみえないものも全て波動で出来ています。
 
勿論、人間も・・・
 
人間とは肉体に魂、心が宿っているのではなく、心に肉体が纏っているのです。
 
心が主、肉体が従です。
 
だから心を整えれば、肉体や自分の周りの状況が整ってきます。
 
調和とは人との調和、自然との調和、宇宙との調和、全てのものと一つに溶け合うことです。
 

気功とは気の働きであり、気はエネルギーであり、宇宙創造の源泉でもあります。
 

気のことを古代の人は神と呼びました。
 
 
今、ちまたで気功が流行りだしたのは決して意味がないのではありません。
 
 
人間の潜在意識は、自分の波動、エネルギーを整えることが大切であることを識っているからです。

 
今日のタイトルの 
気功 教室 大阪 で検索してみてください。

 
1ページ目(1位か2位)で、健康になる気功教室 in 大阪  オリエンタルウインド が登場します。

 

そして、よろしかったら気功とは?調和波動とは何か?読んでみてください。
 

きっと腑に落ちる、納得出来る、あなたの探している何かが?
 

 見つかると思いますよ♪







 

2008年1月 7日 (月)

続・如是我聞 15

   

肉体人間の生涯は、それが苦しみの連続であれ、楽しみの連続であれ、宇宙からみれば一瞬である。

 



解釈

 


人との出会いは有限であるが言葉との出会いは無限である。とどこかで聴いたことがある。

 
人と出会うのは縁の問題もあり限界があるが、活字や本とはいくらでも出会えることが出来る。
 

もしかしたら本や活字のなかでの方が気づきが多いかも知れない。

 
人との出会いで色んな経験をして、本で確かなものにしていく。

 
本の大切さ、重要さが最近つくづくわかる。

 
本は生きている、活字も字のごとく活き活き生きている。

 
だから人を幸せにも出来る、プラスのエネルギーを与えることも出来る。
 

そして、この文章のように、気持ちを大きく宇宙大にすることも出来る。





  

続・如是我聞 14

 
  
富んでいる、貧しいは、お金の多寡ではなく、お金をいかによく生かして使うか、使わないかにある。


 

解釈

 


倹約をして無駄を省き、自分が向上、成長していくための糧としてお金を投資する。

 
すると必要なときに、必要なお金が不思議と現れてくる。

 
金は天下の周りものというが天地の自然の流れに則ってお金を真に有意義に生かしていくとお金が生きていることがわかる。
 

死に金という言葉がある、一方生き金がある。
 
 
自分を大切にして、人も大切にしてお金を使うとお金や物が生き生きしてくる。



  
   


  








   





  

続・如是我聞 13

 
  
心がはげしく動揺することは、暴飲暴食することより、肉体を痛める。

気をつけよう。
 




解釈
 


悲しくて号泣した後で食べるごはんは味がしない、ケンカをしながら食卓を囲んでも美味しく食事をすることはできない。

 
明らかに、胃や身体に悪い影響があったとわかる。
 

病気の原因の多くは心が関係していることがわかる。






  

続・如是我聞 12

 

自分の感情で人を叱るな。心臓をドキドキさせずに、人を叱れるようになれ。


 


解釈


 


人を叱るのが悪いことではない、人を殴ることが悪いのではない。

 
心臓がドキドキしているときは自分自身、平常心でなくなっている。

 
正しい判断、言葉を発すること、行動が取れなくなっている。

 
ここで叱らなければ、ここで一発殴らなければ後で取り返しのつかなくなることがある。

 
そんなときは相手を正気、正しい方向に導いて行かなければならない。

 
だが、それは自分の我、感情でするのではない。

 
相手の心の親、相手を守っている守護霊、守護神の協同でしなければならない。

 

相手の人をほんとうに思い遣っているならば叱る行為は心を落ち着けてすることが出来る。




  

続・如是我聞 11

  
  
海にいったら海の気に合わせよ。山に入らば山の気に合わせよ。
人間は天地大自然に気を合わすことが必要である。





解釈

 


人は天地大自然に気を合わすことを忘れ、相手の人のマイナス想念や業(ごう)、カルマに意識を合わせてしまっている。

 
大自然は人間の故郷そのものであり、魂の母である。
 

人はどこに意識があるかによって天国か地獄、幸せ、不幸が決まる。
 

目の前にある現状がどうであるかではない。
 
 
天地大自然、宇宙、星、風、人間はたくさんの母に守られている
 

さあ、もうマイナスに意識を合わすことはやめよう。





   

どげんかせんといかん


 
宮崎県の東国原(ひがしこくばる)知事が県を立て直すのに一生懸命に頑張っている。
 

 「どげんかせんといかん」 人が目標に向かって努力している姿は美しい。
 

しかし、自分でどうにかしようとして我を張っているうちは肉体人間のちっぽけな力しか出せず大きな仕事や奇跡を生み出すことは出来ない。
  

人間頑張って何でもうまくいけば神様も仏様も必要ないことになる。
 

人間はこのことで古来から嫌というほど頭を打ってきた、数え切れないほどの経験と体験をしてきた。

 
そして悟った人がわかったこととは 
全託(ぜんたく) である。

 
肉体の人間ではどうしようもないことは目にみえない神様の力でしかどうすることもできない。

 
だから、
どうか神様よろしくお願します。 でいい。
 

だが、すべてを神頼みをして自分は何もしなくてもいいのではない。

 
人としてやるべきことはやって、自分ではどうしようもないことは神様を信じて託する。

 
それが 
「全託」 である。
 

どこまで自分がしてどこから託したらいいのか?

 
それは人間の人智ではわからない。

  
だから天命を信じて人事を尽くすになる。
 
 
普通は、人事を尽くして天命を待つだが、まず、大きな力(神の力)を信じなければエネルギーは動かない。

 
肉体の物質の力や念力と宇宙に充満する目にみえない力とどちが大きいか?
 

そのことに気づいた人がキリストやお釈迦様、覚者、賢者である。

 
簡単に全託できる方法がある。
 

それは、もうダメだ自分の力ではどうしようもないと諦めてしまうこと。

 
いったん諦めてしまうと肩の力が抜けてリラックスしてくる。

 
そして神様からの力が入りやすくなってくる。

 
諦めるとは明らかにすることに繋がる、諦めると明るいプラスのエネルギーが湧いてくる。

 
今、もうどうしようもないもがいている人、

 
諦めてみてはどうですか?

 
そして、自分を責めること、人を責めることをやめよう。

  
きっと心の底から今までと違うエネルギーが出てくるのを感じられるはずですよ♪




 


  

2008年1月 6日 (日)

続・如是我聞 10

  

自分がやっているんだ、と思ってるようなうちは、その人は大した人間ではない。




解釈
 
 


人は肉体が本体ではない。
 

霊体といって魂、心の大きさがある。

 
普通、身体の中の心臓のなかに心が入っていると思われている。

しかし心の大きさは一棟のビルよりも大きく、その影響力は地球よりも大きくなるという。

 
自分はこれだけのもの、肉体だけが自分だと思っているとそれだけの力しか出せない。

 
人は持っている力のほんの数%も出していないと言われるのはそういうことなんだ。

 
自分は一人だけで生きているのではなく、祖先の代表として生きている。

 
だから祖先の悟った霊の守護霊もついていれば、その上の守護神もついている。

 
自分はたくさんの目に見えない力によって守られている。

 
人は九死に一生を得たり、絶体絶命のピンチに立ったとき奇跡的に助かって、何かに守られていると感じたことがある。という人も多いと思う。

 
自分は一人ではないんだ、守られているんだ、神様が守ってくださっているんだと思うことは大きな安心に繋がる。




  

続・如是我聞 9

   

人間大きくなりたかったら、自分の責任を他に転嫁するな。




解釈


 
日常生活を送っていたら絶えず責任を負わされる場面に直面する。
 
 
仕事をしていても車を運転していても、人と話をしていても気の休まる時がないくらいだ。
 

俗世間から抜け出したくなったり、うつ病になったり、登校拒否や出社拒否になったりするのもわからないではない。

 
気持ちの優しい人ほど辛い世の中なのかもしれない。
 

だが、どんなに辛く、苦しかったとしても人に責任を転嫁してしまったら、それをしてしまったら後からもっと辛く、苦しい気持ちになる。

 
心が晴れなくて、最後は自分を責めてしまうことになる。
 

人の心はそういう風にできているのだ。

 
責任を転嫁せず、素直に認めたら、心がスーとして、心が大きくなっていくことがわかる。







  

続・如是我聞 8

    

調和とは自分がなくなることである。




解釈
 

これは般若心経の空即是色(くうそくぜしき)に通じると思う。

 
自分がなくなって空の心境になったとき、すべてのものと調和しすべてのことがわかってくる。

 
自分、自分と壁を造っていては、肉体だけのちっぽけな存在でしかない。
 
 
自分が無くなると心と心が一つに溶け合って、そこに愛が生まれる。






  

続・如是我聞 7

  
   
表面だって働くこともよいだろう。しかしそれよりも自分を浄め、深めることがもっと大切なのだ。

 


解釈

 

あわただしい現在において自分を浄め、深めることは非常に難しいと思う。
 
中途半端になるくらいなら現状の仕事をしっかりやって、そして家庭を守ることにエネルギーを注ぐこともいいだろう。
 

ただ、真剣に生きれば生きるほど、自分を深めることの大切さを感じるようになってくる。
 

それは人として生まれてきた意味が自らを浄め、深めることにあるから・・・
 
 
人はここから逃れることは出来ない。
  
 

何万回生まれ変わっても(輪廻転生)、それが唯一の目的だから・・・







  

続・如是我聞 6

 
   
頂くものは有難うございますと思って頂き、差上げるものも有難うございます、と思って差上げることです。

 



解釈
 


頂いたものに有難うございますと思うのはわかるが、差上げたものも有難うございますと思うのは理解し難いかもしれない。
 
この心境を文章にするのは難しく、相手の本心が喜ぶ贈り物をして、それを相手が素直に受け取ってくれた時は思わず 
「ありがとうございます」 と言いそうになる。

 
そんなものを差上げられる人はきっと幸せな人なんだろう。





  
 

続・如是我聞 5

 
  
えらいとほめて認めてくれるのは他人。
 
うまいですね、といってくれるのも他人。

 


解釈

 


これらの言葉を受けて心がウキウキもうれしがったりせず、平常心でいられる人はすごい人だと思う。
 

自分を本当に識っている人はどんなに持ち上げられても有頂天になったりはしない。
 





  

続・如是我聞 4

  
 
永遠の生命をつかまなければ、真の平和も幸福も得られない。


 
 

解釈

 

人間は生まれて、幼少時代を過ごし、勉強をして学校を受験し就職して、結婚して子どもをもうけて老後を迎え、そして老いて死んでいく。
 
 
人生がただこれで終わりだとしたら、なんて刹那的でつまらないんだろう。
 
 
努力したことも苦労して掴んだこともすべて無駄になってしまう。
 
 
最近は 
千の風になって ♪ という歌が流行って、死んでからも生き続けることがなんとなくわかる人が増えてきたように思う。
  

永遠の生命があるとわかれば、病気になること、死ぬこと、貧乏であることが苦しみでは無くなってくる。
 

それがわかってはじめて真に人は救われる。





  

続・如是我聞 3

 
 
いかに自分が正しくとも、人を傷つけてはならない。


 

解釈


正義感が強い人はどうしても自分が正しいと主張し過ぎて勇み足をしてしまい、相手を責めてしまうことがある。
 

そして、相手を責めて後味が良いかといえばそうではなく胸のあたりがもやもやしてスッキリしない。
 

相手の人はどうだろう?当然、気持ちが良いはずがない。
 

結局はどちらにとってもマイナスにしかならない。
 
 
それはもう、その時点で正しいことではないのかもしれない。






   





  

続・如是我聞 2

 
  
今の原因は、たどるとみな前世がある。


 
解釈

 

前世がある、ないと信じる、信じないは理屈ではない。
 
信じないという人にいくらあるんですよと言って説明しても意味がない。
 
ついこの間、国会でUFOがあるかないかが話題になったのと同じです(笑)
 
ただ、前世=過去世がなければ、今の自分の状況が納得できなくなる。
とは言えると思います。

 
前世を知ることは過去を振り返るという意味ではなく、未来をより良くしていくために知識として必要だと思う。








 

続・如是我聞 1

 
如是我聞(にょぜがもん)は仏教の経文の最初にある仏様のお言葉だそうだが今でもじゅうぶん役立ち、私たちの心を打つ、そして気持ちをすっきり、爽やかにしてくれる。
如是我聞は3部にわかれているのでこれから2部に入っていく、引き続き読んで頂けたら幸いです。
 

自分をせめ、人をせめることを止めよ。せめることから自分を解き放つと、生命の光が豊かに流れ入ってくる。


 

解釈



人は一日の間に何回くらい自分を責め、また人を責めているだろう?
 
おそらく、ストレス、イライラの原因は責めることから始まっているのかもしれない。
 
一日だけでもいや一時間だけでもまったく、自分も人も責めることをしなかったらどんなにか健やかに過ごせるか?
 
キリストは、
幼子(おさなご)のようになりなさい と言った。
 
幼子は無邪気で責める気持ちがないからだと思う。
 

せめることなく、生き生きと生きていきたい。





  




 

2008年1月 3日 (木)

如是我聞 31

 
 
人のうわさを信じてはいけない。



解釈
 

人のうわさはど当てにならないものはない。
 
うわさをする人のその人の利害損得で言っている。
 
自分の感情を喜ばせてくれる人をいい人、怒らせる人、気分を害させる人を悪い人だと言っている。

 
そもそもうわさ話をすること事態、あまり感心できることではない。

 
自分をしっかり持っている人、一生懸命に生きている人はうわさ話をしている暇などない。
 

うわさを信じるとうわさにエネルギーを与えて大きくなってしまう。
 

うわさは聞き流し、気にしないことにしよう。




 

  

如是我聞 30

 
 
その人が悪いのではない。業にまきこまれてしまうのだ。あいつは悪い奴だ、といわれる人は、実は、業をそこに結集させて、代表的に業をけしている役目を荷っているのである。ああ、ご苦労さま、あの人の天命が完うされますように、と祈れる心は仏の心である。




解釈

 

テレビドラマに出てくる悪役の人は本当に悪い奴ではない。
 
ただ、演じているだけだ。
 
それと同じように、自分の身の周りにいる悪い奴と思っている人は、自分を成長させてくれる為に悪い役をかって出てくれている、ありがたい人だと思うときがある。
 

自分の中にすべての世界がある。すべての世界の中に自分がいるのではないのだ。
 
 
どんなときも自分が主役で、他のものはすべて脇役に過ぎない。
  

悪役を演じてくれている人は本心が出ていないので本来のその人から遠くなってしまっている。
 
みんなを代表して、業(ごう)、カルマをたくさん背負ってくれているのだ。
 
誰が悪く、誰が良いわけではない。
 
人の本質はみんな一緒なんだ。
 
みんな光輝いているんだ。





  

今が大切

 

過去に戻ってその時に失敗したことをやり直したい、そして現在を理想どおりにしようとした人のドラマをやっていた。
 
その人は過去に戻ったけど、結局そのときと同じことをしてしまう。
 
そしてその人は気がついた、過去を変えるよりも今を変える、今の自分が変われば、未来の自分は過去や現在と違う人になっているし、周りの環境も変わってくる。
 
そしたら過去を変えたことになる。
 
過去、現在、未来で過去の結果が確かに現在だけど、過去を悔いたところで後ろを振り返ったところでどうすることも出来ない。
 
それよりも前だけ見て、今をしっかり生きていこうと思う。







  

2008年1月 2日 (水)

如是我聞 29

 
  
ただ、人が善いということだけではだめだ。知恵を働かせることだ。


 
解釈


 
人間的に素晴らしい人がいる。
 
みんなに好かれて性格がかわいくて、何をしても憎めない人がいる。
 
悪気がなく、気持ちが優しいので誰からも受け入れられる。
 
でもそれだけで、自分から積極的に何もしようとはしない。
 
だから進歩しない、成長していかない。
 
人の善い人が向上心を持ったらどんなにか素晴らしいだろうと思う。





  

如是我聞 28

 
  
気力というのは無理に燃やそうとしても、本当には出て来ない。そうではないのだ。
気力は内から自ずと湧いてくるものなのだ。



 
解釈


 
人は無気力になったとき、自分を責める、そして同じように人も責める。
 
特に怠惰に見えている姿を見ると放っておけない。
 
怠惰ではないのだ。
 
時期をみて立ち上がろうとしているのだ。
 
だから内からフツフツと気力が湧いてくるのを信じて暖かく見守ってあげればいい。

 
でも、つい、いらないマイナスの言葉をかけてしまう。
 
愛は忍耐であるという。
 
愛は忍耐の強さに比例する。




 

如是我聞 27

 

偉いとは偉くないとかは、人が見ることだ。




解釈


 

自分のことを偉いと高慢になっている人は見ていて気持ちが悪い。
 
その人の行為や言っていることがどんなに素晴らしくても偉いと思ったり、云ってしまった時点で帳消しどころかマイナスになってしまう。

 
業(ごう)、カルマは油断していると容赦なく人の心の中に入ってくる。
 
人はどうしても人の評価が気になる。
 
自分はどう思われているのかが気になる。
 
しかし周りの評価が気になっていては自分の生命(いのち)が輝いてはこない。

 
そんなことはどうでもいいと自分のやるべきことに意識を合わせるべきだ。





  

如是我聞 26

 

欠点はそのままにしておいて、長所だけをどんどん延ばせばよい。堂々と生きよ。



 
解釈


 
この言葉は子どもを育てる上で一番必要ではないだろうか?
 
もしかして欠点でもないかもしれないのに親は子どものちょっとしたことや行為が気になってしかたがない。
 
他人の子どもだったら気にならないことを今、治さないとずっとそのままでいくように思ってしまう。
 
子どもは親が思った通りに育ってしまう。
 
気にしていたら気にした通りの子どもになってしまう。
 
自分のことも欠点ばかりを気にかけていたらその通りになる。
 
欠点はマイナスのエネルギーで有限である。

長所は宇宙から流れてくる天からの無限のエネルギーである。
 
無限は有限を包み込む。
 
プラスはマイナスを変える。
 
だからマイナスに意識を向けずにプラスのみを思っていればいい。
 
 
そうすれば、欠点はいつのまにか消えてしまう。





  







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