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2007年10月30日 (火)

自らの内にないものが・・・

  
1.自らの内にないものが外から引きつけられることはない。近づいてくるものは、あなたが呼び寄せているのだ。


人は自分に何か都合の悪いことがあるとすぐに他人のせいにする。
 
そして、自分は悪くない、悪いのはあいつだと非難する。
 
だが、今起きていることの全ては自分の波長が相手の人や出来事と合うことによって具現化されている。
 
もしくは過去世において自分が発した想い(想念)が時間を経て現れて来ている。
 
だから、全ての現象は望む、望まないにかかわらず自分が引きつけている。
 
そのことは云われなくても薄々感じている、わかっている。
  
しかし、それを認めたら誰も助けてくれない、同情してくれない。
 

「助けてもらえないなら、同情してくれないなら今にままでいいや」
 

そう思ってしまっては何の進歩も進化もない。
 
病気、貧乏は決して治らない。
 
どんなに想定外のことが起きても全ては自分に責任があると潔く認める人は本当の大人だと思う。
 
本当の大人になるためには
 
自らの内にないものが外から引きつけられることはない。近づいてくるものは、自分が呼び寄せているのだ。

 
という真理がわかっていなければならない。






  

2007年10月24日 (水)

今の環境

  
今、おかれた環境から逃げようとするな。いやだ、逃げよう、もっといい立場が他にあるに違いない、とあがけばあがく程自分の苦しみも多くなるし、進歩も遅れる。
今、おかれた環境、立場より他によい環境、立場は自分にはないのである。
何故なら、神様が自分に必要があってその環境において下さったものであるからだ。
有難く受けて、そう出来なかったら、いやいやながらでもいい、こんなこと必要がないな、と思ってもいい。
しかし、その環境の中にすっかり腰をすえて、一生懸命、誠意をつくして、仕事なら仕事、勉強なら勉強をすることだ。
そうしていると、一番いい生き方が与えられる。それが環境を生かすということである。
そして、後になって、それが必ず、自分に大きくプラスになり、役立ってくるのである。
役立たないことを神様はさせるわけがない。
あがかず素直に一生懸命にやっていると、神様のほうで 「よし、この修行は終わった」 とパッと新しい環境、立場へ出してくれる。
これが私が実際体験したことである。



         如是我聞 五井昌久










   

2007年10月23日 (火)

足は18歳から弱って・・・

 
足は上半身の身体を支えている。
 
足の裏は例えば60kgの体重を支えている。
 
身体の外部では一番痛みやすい。

だから、メンテナンスをして同時に柔軟さを身に付けていかないとどんどん老化していく。
 
なんと18歳から老化が始まるらしい。
  
老化を防ぐには足の裏のマッサージを念入りに行うのがよい。
  
足の裏は湧泉(ゆうせん)と云って、頭のてっぺんから入ったエネルギーがこの湧泉を通って地球の中心に流れていく大切な場所になっている。
  
ここが硬くなっていると生命エネルギーがスムーズに流れない。
 
マッサージによって湧泉を柔らかくほぐしていく。
  
そして、足首をグルグル回してやるのもいい。
  
寝転んで(仰向け)手足を動かすのも身体全体を活性化させるのに役立つ。
 
そして、足全体の疲れを取るには、お相撲さんやイチローがしている又割りがいい。
  
下半身の強化になる。
  
最後はスクワットを十回程すれば見違えるように元気になる。
  
  
健康の源(みなもと)は下半身、足にあると思って間違いないと思う。




  





  

2007年10月22日 (月)

人間は多次元に生きている。

 
氷山の一角を本当の姿のほんの現れの一部しか見ていないのと同じように、肉体の自分が自分の全てだと思っている人は多い。

奥の部分を知らないのでわからないのは無理はないが、人間はそんな薄っぺらいものではない。
 
本当の自分は、大きく分けて幽界、霊界、神界などに同時に住んでいる。

神界は天国といってもいいし宇宙であるとも云える。

寝ているときは肉体から離脱してこれらの世界へ自由に行き来している。
  
人間の苦悩は肉体(3次元)がうまく、思い通りにいっていないことによる。
 
自分は3次元にしかいないと思ったら、そして自己限定したら行き詰ってしんどくなる。

 
自分は多次元に住んでいてこの世は氷山の一角のようにほんの一部なんだと思えば(実際そうなんだけど)心が開放される。





  

人と比べること

  
人の苦悩のほとんどは人と比べることから始まっている。
 
人と比べると優越感か劣等感しか得られない。
 
どちらもどうでもいいことだ。
 
優越感は奢り高ぶり、劣等感は自分を卑下する。
  
自分の気持ちをニュートラル(中心)に保つことができない。
 
中心に意識がいかないことは平常心、不動心でないことを意味する。
  
競争社会は人と比べることで成り立っている。
 
競争に勝たないとダメ人間だと云われる。

 

だが、競争社会が人間をダメにしていることにほとんどの人は気づいていない。
 
だから、気づいた人から人と比べていくことを止めていこう。
 
止めると心が自由になっていることに気づく。





  

2007年10月17日 (水)

「何になるか」より「どう生きるか」

 
最近の就職難により学生は「何になるか」ばかり考えているように思う。
 
大切なのは「職種」ではない。
 
何よりも大切なことは「どのように生きるか」「何のために生きるか」「何のために働くのか」である。
 
そのための手段として、「職種」があるのである。
  
医者であること、経営者であること、政治家であること、いずれもたいしたことではない。
 
大切なのは、なぜ医者か、そして、どのような生き方をする医者になるかである。
 
「どう生きたいか、どんな人間になりたいか」は魂の問題である。
 
それは人間の尊厳の問題であり、真の意味での自由の問題である。


    

        思いをカタチに変えよ!渡辺 美樹 PHP より








   



 

 

2007年10月16日 (火)

一日一生

  
明日があるさ♪という歌があったが、一日の始まりに生まれて一日の終わりに死ぬと思って生きていったならばどんなに充実した日々を送れるだろうと思う。
 
人は皆、次の日のことを考えて疲れが残らないように余力を残して床に就く。
 
あたかも出し惜しみをしているかのように・・・
 
だが、宇宙から入ってくるエネルギーは無限でその日に使い切らないとまた満タンにはならない。
 
出し惜しみをして30%残したとしても次の日には100%にはなっていない。
 
これは100%与えなくてもどうせ使い切らないだろうと自分で自分を甘やかしているからそして、自分で自己限定をしている。
 
 
ところが今日で死ぬと思っている人は日頃なかなかできないことまでやってのける。
 

悔いを残すのがいやなので 「ごめんなさい」 が云える。

 素直に 
「ありがとう」 が云える。

心から 
「おつかれさま」 が云える。


そして、生かされていることに感謝ができる。

 
怠惰な生活を送っていると時間の大切さを忘れてしまう。
 

だが、これではいけないと気づくことも多い。
 
 
少し怠惰になりかけていた自分にこの気づきは大きかった。

  
一日一生、心に刻み込みたいと思う。


  
    思いをカタチに変えよ!渡辺 美樹 PHP


   
      
本当に素晴らしい本でした。




  




  



陰徳を積む

 
今の世の中で目立たず人にアピールできない人は負け組みのように言われている。
 
そして、自分を主張して自我がある人のことを賞賛している。
 
選挙などでも自分を売り込まないと勝つことはできない。
 
だが、自分を主張したときのあのなんともいえない後味の悪さはなんだろう?
 

なんで云ってしまったんだろうといつも後悔する。

逆に、人知れず良いことをした後は気持ちがいい。
 
だがその清々しさも誰かに云ってしまうとそれはうそのように消えてしまう。
 
この陰徳は人に云ってしまったら意味がなくなる。

 
台無しになってしまう。
 

それは、褒めてもらいたいという汚れた想いが善い行いを包み込んでしまうから・・・
 
だから自慢話をする人の周りの空気は重くよどんでいる。
 
周りの人たちが息苦しくなる。
 
聴きたくなくなる。
 
人は皆、自分を認めてもらいたいという欲がある。
 
褒めてもらわないと機嫌の悪くなる人もいる。


欲を出して心を曇らせ、いいことをしたくて徳を積む。
 
その繰り返しをしているうちに段々と人の評価がどうでもよくなる。
 
人が自分をどう思うかより自分の本心を曇らせない方に価値を置くようになっていく。

 
そうなったら、自分は素晴らしいと自分のことを尊敬できるようになる。


そして、人のことも許せて、愛せるようになっていく。





   





    

2007年10月12日 (金)

人のための欲は大きく、

  
人のための欲は大きく、自分のための欲は小さく・・・


自分のための欲が全く無くなったとしたら全ての苦悩はなくなるかもしれない。


「人間は皆、自分が一番大切な生きものだけれども、その自分へ注ぐ愛をできる限り小さくしていこう」 

んなことを常に考えながら生きている人がいる。

悟るところまではいかなくても、自分をここまで清くしていける人は立派だと思う。

確かに、苦しいこととは自分が満たされていないことに対する苦悩だ。

お釈迦様は、「多欲の人は利を求めること多きが故に、苦悩もまた多し。少欲の人は求めなく、欲なければすなわちこの憂いなし」
 
「諸々の苦悩を脱せんと欲せば当に知足を観ずべし」


と説いている。


老子も説いているが足るを知る、自分が存在しているそれだけでなんとありがたいことか、今の状態でもうすでに満たされていることを知る。



欲を小さくする、それを極めていくと自分を無くしていくことにつながるのかもしれない。







   









  

どんなに立派なことを言っても

 
ある人の本にどんなに立派なことを言う人がいても 
 
「私はタバコをポイ捨てする人を信用しない」 と書いてあった。
 
それと同じく電車でお年寄りや身体の不自由な人を見かけても、見ぬふりをしたり、無視をしたりする人もそうだと思う。
 
その人たちが電車の椅子に座って愛についてどんなに素晴らしいことを語っていたとしてもそれが行為になって顕れないと、なんの価値もない。
 
この本は自分を裸にする、リセットすることの大事さを教えてくれた。
 
どんなに立派になっても、人から尊敬されるようになっても行為が伴っていないと全てが消える。
 
人の評価ではなく、自分の本心を曇らせる。


表面的なことはどうでもいい。

 
形のあるものは時間が経てば消えていく。
 

だが、愛の心は永遠に光り輝く。



  

   思いをカタチに変えよ!渡辺 美樹 PHP

                   
本当に素晴らしい本でした。







   

お仕事ご苦労様

  
人は自分のことばかりを考えているとお疲れさまを人に云えない。
 
同僚や知人には云えても家族に云うことはなぜか難しい。
 
家族が働くことを当たり前のように思っている。
  
陰では感謝しているのかもしれないが、云うと損のように思っている。
 
働いているのは自分もそうだ、相手が云わないのになぜ自分が・・・
 
だが、仕事から疲れて帰ってきて、家族から「お疲れさま」の一言をもらったらどんなにうれしいだろう。
 
他人から云われるよりももっと、重みがある、価値がある。
 
それも、上辺からでなく、本当に大変だったね、いつもありがとうの気持ちを込めて云った「お疲れさま」は相手を潤す。
 
そして、その潤いは自分にも返ってくるし、他へも波及する。
 
自分があっては、心からの 「お疲れさま」 は云えない。
 
自分を空(むな)しくする、空(くう)にする、空(から)にする。
 
そして、自分をなにかとてつもなく大きいものに託する。

 
それが大切だなあと心から思う。




  

自分が潤いたいと思ったら


精神的な面な物質的なことでも自分が豊かになろうとしたら、まず、相手の人に潤ってもらわないと、自分が潤うことはない。
 
自分が精神的に枯渇して、充足していないときは自分の殻に閉じこもっていても進展はない。

自分が喜びを得たかったら自分が喜びを求めるのではなく、人に与えていくことでしか得ることはできない。
 
その為には自分を無くすこと、自分が、自分のために、自分にもっと、自分はこうして欲しい・・・・

私が好きな教義に自分を許し、人を許す、自分を愛し、人を愛すとある。
 
人よりもまず、自分を許し、愛さなければ、人を許し、愛すことはできないと・・・・
 
でもそれは、自分というものを無くすことであった。


自分という我がなくなって、自分と人が一体となったとき、愛や許しが自他一体となる。







     

2007年10月10日 (水)

10の人は100の人に・・・

 
人は肉体の身体の大きさではなく器というか目にみえないエネルギーの大きさが一人一人違う。
 
大きいからいいとか小さいからダメだとかではなくそれぞれの働きのためにそれをもっている。
 
当然それは影響力があって10の人は100の人の影響をいい意味でも悪い意味でも受けることになる。
 
学校や職場が他と比べて明るく和やかだとしたら、そこには影響力の強い人が必ずいる。

先生かもしれないし、生徒の中の一人かもしれない。
 
そしてこの人は大きな包容力も持つ。
 
周りを包み込んで暖める。
 
本当の癒しとはこの100の人が10の人に歩み寄っていくこと。
 
10の人が100の人を癒すことはできない。
 

だから100の人が貴重なのです。



   

殻を破る

 
人はあともう一歩前進すれば自分の殻が破れるのになかなか破れないでいる。

努力もしている。
 
一生懸命もしている。

でも突き抜けられない。
 
この殻を破るのは誰も手伝ってはくれない。

ひよこが自分で卵の殻を破らないと外の自由な世界に出られないように自分で殻を壊さないと本当の自由はやって来ない。


難しいことはない。


ちっぽけな、どーでもいいプライドを捨てさえすればいい。


ほんの小さな勇気を出して・・・



さあ、今から殻を破るぞ♪





    


2007年10月 7日 (日)

寄り道と迷い道

 
一つ前のブログを書いていて気がついた。
 
もう一週間もブログをサボっていた。
  
この一年間ほとんで欠かさずに書いてきたのに・・・
  
忙しかったわけではない、書けなかったわけでもない

  
ただ、寄り道をしていた。

一つの目標に向かって突き進むとき、何らかの経験をしながら進んでいく
 
経験をしなかったらその線は太くならない。
 
強くならない。
 
柔軟にならない。

人の気持ちがわかるようにはならない。
 
  
そして寄り道をしながら又、本線(元の線)に戻っていく。
 
  
だが迷い道は違う、この本線がわからない。
 
戻るべき道がわからない。
 
今、人は迷っている。
 
自分は何者か、どこから来たか、どこへ帰っていくのかわからないでいる。
 
ナビゲーターが必要だ。
 
だが、それは他人に導いてもらうものではない。
 
自分で求め、自分で探し出すしかない。
  
そのために経験を積む。
 
経験して、頭を打って、反省して、努力して、勇気をだして、頭を柔軟にして、自分という枠を外して、色んなことを考えて・・・

そして、時期が来た時に迷い道ではない、寄り道から脱することができる。


今はそんな時期のような気がする。








   






 

人は自分の鏡

  
「人は人自分は自分」・・・小さい頃、人のものを欲しがった私を母が諭していた。
 
同じ人間でも自分と人は違う人間、性格も育った環境も違う。
 
だから、考え方も思っていることもすべて違う。
 
だが、すべては同じところで繋がっていた。
 
たくさんの光が一つの太陽から発しているように私たちの意識も一つに繋がっている。
 
太陽が色んなものを照らすように、人それぞれ役割、働きが違う。
 
元は同じなのに私たちはつい違う光だと、別のものだと思ってしまう。
 
だからケンカになる。
 
だから戦争になる。
 

先日、仕事で上司から細かいことの指摘を受けた。
 
少しカチンときた。
 
「細かいなあ、もう少しおおらかになれないかなー」
 
と思った瞬間気がついた。

自分も同じことを家族にしていたことを・・・
 
人にはさすがに云えないことを縁の深い家族には云っていた・・・
 
そして、初めて人は自分を写す鏡であったことがわかった。


これからは気づいたこと思ったことがあっても言葉に出すのは
 
3回に一回にしよう。
 
言葉に発しない代わりに相手の天命を祈ろうと思った。

 
私にとって大きな気づきでした。






  

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